なんとか合同会議を乗り切ったと一安心したら、グウゥゥゥと盛大な音が室内に鳴り響いてしまった。
 反射的にその音を押さえ込むよう自らの身体を抱えると、眼前に置いてあったマイクの音量がオンになっていることに気が付く。
「う、うそっ、マイク、入ったままだった……」
 穴があったら入りたいとはこのことだ。頭を抱えた私に突き刺さる視線の数々が痛くて仕方ない。
「ぷっ、ふふっ!」
「笑わないで下さいよジョディ捜査官ー」
 恥ずかしくて顔が上げられないし、私が発してしまった音と共に聞き覚えのある声がぴたりと止まったので、これは確実に聞かれているのだと思うと顔に地が集まってくるのを感じてしまう。
 恥ずかしい、本当に恥ずかしい。
 会議が終わった後で良かったと、胸をなで下ろす余裕がないほどには恥ずかしい。
「相変わらずマイペースだな」
「それは、私のお腹が、って言いたいんですか?」
 うずくまったせいで見上げる格好となった赤井さんを睨み付ければ、緑色の瞳がからかいの色を持って細められる。
「お前は待つことに向いていないと再確認しただけだ」
「ううっ……返す言葉が見つからない」
 せめてあの人には聞かれたくなかったと、安室さんがいる方向へ視線を投げてみたら、呆気にとられたという言い回しがしっくりくるような表情で私を見ていた。
「だって、今日朝から食べてなかったんですもん……」
「あら珍しいわね。はいつもしっかり食べてるんでしょう?」
 一日の元気は朝食にあり、とばかりに、普通の人よりも多い量を普段なら食べている。食べているのだが――今日だけは特別だったのだ。
「資料をまとめるのに忙しかったの?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「寝坊でもしましたか?」
「い、いえ、いつも通りの時間に起きたので……」
「金を下ろすのを忘れたんだろう」
「お金がなくてもあの家には食材の買い置きがあります」
 これ以上の追求は止めて欲しいという気持ちを表現するよう両手を挙げれば、三人が揃って口を閉ざす。
 こうなってしまうと説明するまで、この人達はこの場を去らないだろう。
 私達が退出しないせいで、日本側の人達も部屋に残ってしまっているのが申し訳ない。
 日本の警察は時間に追われる生活をしていると聞くから、この場に留まる行為も貴重な時間を無駄にしていると感じていることだろう。
「だから……その……」
「往生際が悪いぞ、
「そうよぉ、別にお腹が鳴ったくらいで笑い者になんてしないわよー」
「報告書にも書きませんしね」
「ううっ……」
 普段は仕事が出来る人達なのに、どうしてこういう時だけ結託して意地悪をしてくるのだろう。
 暇か、暇だからなのか?
「で、原因は」
 時間切れかと盛大なため息を吐き出し、下唇を噛みながら心の準備を整える。
 どうせここに居る捜査官の人達とも、今回の一件が終われば顔を合わせることもないのだから、自分の恥を暴露したところで痛くも痒くもない……はずだ。
「だっ……だって今日は手料理をご馳走してもらう予定だったんですもん!」
 言った、言ってしまったとさらに顔を赤くした私の眼前で、赤井さんが面白いものを見るように「ホォー」と音を漏らす。
「胃袋を掴まれたわけだ」
 ポアロで提供される料理があれだけ美味しいのだ。期待するなと言う方が無理な話だろう。
「で?」
 ちゃんと答えたのに引いてくれる気配のない赤井さんに対して、恥ずかしさと苛立ちと、この場から逃げたいという衝動が上限を超えたのは突然のことだった。
「いっぱい食べたかったから朝と昼を抜いたんですー! それくらいわかってよ!」
 衝動的に叫んでしまった後、ここがどこだったかを思い出して一気に血の気が引いていくのを感じた。
「赤くなったり青くなったり忙しいな」
「誰のせいだとっ!」
「いまのはシュウも悪いわ。でもまぁ、沢山食べたいからご飯を抜いただなんて、昔からは考えられない台詞よね」
「こういうのを丸くなった、というんでしたっけ」
 感慨深そうに頷くジョディ捜査官とキャメル捜査官。
 先程から向けられる生ぬるい視線のせいで居たたまれなくなっていた所に、「さん?」と私の名を呼ぶ声を耳がキャッチしてしまい、逃げるように出口に向かって足を踏み出した。
 途中でテーブルの角に足先をぶつけて痛みを感じたけれど、いまはそれどころではない。
 一刻も早く私を知る存在の側から離れたくて、半分閉じていた扉を勢いよく押し開けたら、背後から「風見、後は任せたぞ」とまた聞き覚えのある声が鼓膜を揺らしたので、今度こそ全速力で逃げることにした。
さん!」
 結末のわかっていた逃亡劇は、すぐに終演を迎える。
 足の速さに自信はあったけれど、私を追いかけてきたのは私以上の健脚を持つ存在。捕まるのは時間の問題だと理解していても、こんなに早く追いつかれるとは思っていなかった。
 人気の無い廊下で右腕を取られ、勢いを殺しきれずに身体を反転させると、目の前には長時間見ていても飽きなさそうな青い瞳。
「ッ、あ、のっ」
 私が倒れないように気を回してくれたのか、腕を取られると同時に安室さんが私の腰に手を回して抱き込んでいた。
 その結果、抱き合っているような体勢にになってしまい、余計に顔が赤くなってしまう。
「どうして逃げるんですか」
「あっ、当たり前じゃないですか!?」
「何が当たり前なんです?」
「だっ、だから、おっ、お腹なっちゃったし!」
 何故二回も羞恥心で死にそうな目にあわなくてはならないのか。
 日頃の行いが悪いせいだと言われてしまえば言い返せないけれど、これはあまりにも酷すぎる仕打ちだろう。
 とりあえず目の前の男から離れたいともがいてみても、しっかりと固定されてしまった身体はびくともしない。
「そんなに、僕の料理が楽しみだったんですか?」
 耳元で囁かれ、肌の表面が粟立つ。ああもう、そうです、そうですとも。安室さんが作ってくれる料理を物凄く楽しみにしていましたとも!
「た……楽しみにしてたら……悪いですかぁ」
 つい泣きそうな声になってしまったのは、恥ずかしいからだ。
 こんな醜態赤井さん達には絶対に見せられないと俯けば、クツクツと喉を鳴らすような音が頭上から降ってきた。
さん、デートしましょう」
「へ?」
「腕によりを掛けて、ご馳走しますよ」
「そ……それって」
 時間的には夜食になってしまうかもしれませんが、と続けた安室さんの声に、胸の内が温かくなっていくのを感じる。
 一度は諦めた、美味しい料理にありつけるかもしれないという期待感が全身を支配したせいで、思わず自由な方の手で彼の胸元に縋ってしまった。
「ッ、さん……?」
「う……嬉しいっ! 本当に、本当に楽しみにしてたんです! あんなに美味しい物食べたの初めてで!」
「アメリカは……ジャンクフードが多いですからね」
「そうなんです! だから、そのっ、で、出来れば! き……キノコ料理が食べたいんです!」
「キノコですか?」
「はい、キノコです!」
 素朴な味の食材は、料理人の腕によって仕上がりに天地ほどの差が出るのだと教えてくれたのは、工藤邸の隣に住んでいる灰原さんだ。
 なるべくカロリーの少ない食材を使うことによって、阿笠博士のメタボ化を防いでいるのだと苦笑していたのを思い出しながら、ここぞとばかりに食べたい物のリクエストを安室さんに伝えていく。
「構いませんよ。帰りに買っていきましょう」
「はいっ!」
 お腹を減らしておいて良かったなぁと幸せを噛みしめている私から安室さんが手を離したせいで、いままで自分達がどんな体勢でいたのかを思い出してしまった。
「す……すみませんでした」
「いえいえ、役得です」
 さまになりすぎるウィンクを至近距離でくらい、頭の中がくらくらする。
 こんな人が上司だと色々大変だろうなぁと、彼の部下に同情しながら自分の保護者たる存在を脳内に引きずり出してみたら、どっちもどっち。という単語が右から左へ流れていった。


 スーパーで大量のキノコを購入し、連れてこられたのはあまり大きくないアパート。
 玄関戸を開けた途端、中からい草の香りがしてきたので、妙にそわそわしてしまった。
「適当にかけていてください」
「お言葉に甘えて」
 スーツをハンガーにかけて腕まくりをし、キッチンに立つ安室さんの後ろ姿は家事に慣れている男性そのものだ。基本的に外食で済ませてしまう私とは大違いだと興味深げな視線を向けていたら、あまり見られると恥ずかしい。とまぁなんというか、心にもないような返事を頂いたので笑いたくなってしまった。
「そういえば、さんは聞かないんですね」
「何をですか?」
「僕があの場にいたこと」
「あぁ……」
 安室さんが警察関係者だったということには驚いたけれど、本当に驚いただけで終わった。
 誰だって秘密の一つや二つを抱えて生きているのだから、改めて指摘するような事柄でもないだろう。
「安室さんも聞かなかったじゃないですか」
「貴女の職業に関して?」
「はい。別に隠すことでもないですけど」
 いま携わっている仕事にはやりがいを感じているが、規則に煩そうな日本の警察からしてみれば、私の立場なんて遊びでやっているように感じてもおかしくない。
「驚きましたよ。さんのような人が凶悪犯罪に関わっているなんて」
「そうですか? 別に普通……では、ないですね。まぁ向こうの捜査には色々な人種が関わりますから」
 特に変なことではないと告げると、安室さんの肩がわずかに上下する。どうやら笑っているようだ。
「興味深い」
 話をしながら、手際よく料理を作っていく安室さんの後ろ姿を見つめながら、そうかな? と小さく口の中で呟いた。
さんは叩けば叩くだけ謎がこぼれ落ちてきそうですよね」
「えっ、暴力反対です」
「本当に叩くわけじゃないですよ」
 苦笑交じりに言う安室さんが、こちらへと視線を寄越す。言外に皿の用意でもしろと言われたのかと思ったけれど、どうやら違ったらしい。
「謎を解きたくなるのは探偵のサガですね」
「はぁ……そういえば安室さんは探偵でもありましたよね。お仕事が沢山あって大変そう」
 事実を噛みしめるように言えば、今度は驚いたような視線が絡んできていたことに気付く。
「私、変なことを言いましたか?」
「いえ、少し驚いただけです」
 警察の仕事と探偵と、ポアロでのバイトだったか。この人はいつ寝ているんだろうと素朴な疑問が持ち上がったところで、キノコのオムレツとスパゲティがテーブルの上に置かれる。
「お……いしそう」
 あの短時間でこんな美味しそうな料理を作れるなんて、安室さんは超人に違いない。
 思わず身を乗り出した私の行動が面白かったのか、震える声で「食べていて良いですよ」と安室さんが私がいる方のテーブルにフォークを置く。
「待ってます」
「温かい内に食べた方が美味しいですよ?」
「じゃあ、安室さんも一緒に食べましょう」
 次の料理を作ろうとしていたのか、フライパンを洗っていた安室さんを誘えば、仕方ないと言いたげな表情で自分の分のカラトリーを片手にテーブルの方へ歩いてきた。
「頂きます!」
「召し上がれ」
 見た目通りオムレツはふわふわで、少しフォークで刺しただけで中の卵がとろりと溶け出してくる。
 なんだこれ、本当に凄い。どんな店で修行をしたらこんなに美味しいオムレツを作ることが出来るようになるのだろう。ポアロか、ポアロなのか?
さんは凄く美味しそうに食べますよね」
「だって、美味しいんですもん」
「作り手冥利に尽きます」
 美味しすぎて不安になるだなんて気持ち、多分安室さんは分からないのだろう。
 ポアロで何回かといまの食事で、私の胃袋は完全に安室さんが作った料理の味を覚えてしまった。
「向こうに戻ったら餓死しそう」
さんはFBIの人達と来日なされたんですか?」
「はい、今回の一件が片付いたら戻る予定で」
「なるほど……。となると、遠距離恋愛になってしまいますね」
「遠距離……? あっ!」
 すっかり忘れていたが、一応安室さんと付き合っていたのだという事実を思い出す。
さん……?」
 笑顔ですごまれると居たたまれない。すみません、の気持ちをハンズアップで示すと、安室さんがわざとらしいため息で空気を揺らした。
「僕、本気だったんですけど」
「えっと……」
 わざわざ本気というなんて嘘くさい。いや、本気だったら本気で嬉しいのかもしれないけれど、いまいち……こう……しっくりこないのだ。
 ボタンを掛け違えているような、ガラス越しに見ているような、そんな違和感が胸の内側に付きまとっている。
 安室さんの作る料理は好きだ、愛していると言っても良い。だが、その作り手となると……どうなのだろう。
 外見だけで判断すれば、おそらく高得点。ポアロでの接客を見ていても彼が女性にもてるのは明らかだ。
 料理も出来て優しくて、見た目も良い。そんな高スペック男子に好かれるというのは、女性として喜ばしいことなのだろう。
 ただ。
「いまは、ブロッサムのことしか考えられなくて……。一段落すれば他の感情が出てくると思うんですが」
「その気持ちは分かりますよ」
「あの殺人鬼が動くのは新月の晩です。つまり、明日」
 くるくるとスパゲティをフォークに巻き付けながら言うと、安室さんの纏う気配が変わる。
「確保ポイントは三カ所だったか」
「はい、大通りが一番可能性が高いとみています」
「根拠は」
「ブロッサムは自信家です。それはアレがナイフ――近接攻撃を得意としていることからもお分かりかと思います。であれば、裏路地や住宅街よりも、大通りの方が舞台に相応しい」
「快楽を追い求めるタイプの殺人鬼ということか」
 ターゲットをむごたらしい姿にし、自らの偉業だとばかりに世間へ突きつける。
「こちらとしても見通しの良い場所の方が良いのでは?」
「それは……そうだが」
「舞台の幕が上がるならば、俳優は壇上にいなくてはなりません。ですから、安室さん」
 フォークに巻き取っていたパスタを口の中に放り込み、咥内に広がるバターと醤油のハーモニーを堪能した後、喉を鳴らしておいしさを飲み込んで。
「明日、私と一緒に主演をはってください」
 今日の主題を伝えれば、湖のような青い瞳がきらりと揺らめいた。

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