どうやら、と約束を交わすと面倒な事件が発生してしまうらしい。ということに安室が気付いたのは、ポアロを上がってすぐに部下である存在から一報が入ったせいだった。
本来であれば今日の午後はの謎を探るために夕食を共にする予定だったのに、緊急の会議に出席して欲しいと呼び出しがかかってしまったのだ。
潜入捜査をしている安室が会議に呼び出されるなど、よほどのことだ。
コナンは一部の警察官から死神呼ばわりされてしまったらしいが、もある種の疫病神なのではと安室がため息を吐いたタイミングを見計らったように、電話の向こう側にいる部下――風見が聞き流せない単語を安室に告げた。
『会議にはFBIも参加するようですので、今回ばかりは降谷さんにも顔出しをして頂きたいと』
「……分かった」
電話を切り、スマホに表示された時刻を確認すれば午後一時。会議は三時からだと言っていたから、まだ余裕はある。
さて、への連絡はどうすべきか。FBIが関わってくるとなると長引く可能性もある。だが、取り付けた約束を連続で反故にするというのは、安室の立場上どうなのだろうかと逡巡する。
急用が入ったといえば、は何の疑問も持たず了承するだろう。短い付き合いだが、彼女の性格は多少把握したつもりだ。
「諦めるか……?」
という存在の謎を放置すれば、安室は悩まなくてすむ。
「だが」
答えは簡単なのに、その答えを選びたくないと思ってしまうのは、どのような心境変化によるものなのだろうか。あの飄々とした女に一矢報いてやりたいと思っているのか、それとも、あの宝石のような瞳に自分を映して欲しいと思っているのか。
「FBIが出張ってきているとなると、テロリストか?」
公安である自分達が会議に呼ばれるとなると、その可能性が高い。一度仮住まいの自宅に戻り、降谷としての体裁を整えてからへ連絡するかどうかを決めよう。
「安室さん!」
身の振り方を決め、自宅へ戻ろうと行動を起こした安室を呼んだのは、今し方まで安室の脳の一部を占めていた存在だ。
「さん」
「す、すみませんっ! あのっ、今日の、よ、てい、なんですがっ!」
走りながら喋らずとも、逃げないのに。と安室が呆れていると、ようやく安室の前まで辿り着いたが肩を上下させながら予定を延期して欲しいと告げてくる。
断る手間が省けたと内心で笑んだ安室とは裏腹に、は申し訳なさそうに眉根を寄せ「本当にすみません」と謝罪の言葉を口にした。
「そういえば、さんがスーツを着ているの初めて見ました」
「ああ、ええ。私も日本に来てから初めて着ました」
「わざわざスーツを着用するということは、公的な場にでも顔を出される予定が?」
「公的……といえばそうなりますかね。とにかく急いで行かないといけなくて……」
だったら電話で告げれば良かったのではと安室が当然の疑問を抱いていたら、は「電話だと失礼かと思いまして」とよく分からない感情を安室に伝えてくる。
「忙しい時は電話で良いと思いますよ?」
「はぁ、まぁ……そうなんですが……。約束を破らないというのが、私のモットーでもあるので……」
「なるほど」
どうやらにとって今回の選択は苦渋と称するに値するものらしい。
今時珍しい人だとある種の感慨を安室が抱いていると、今度は「警視庁ってどうやって行けば良いんでしょう?」と想定外の台詞をが投げかけてくる。
「警視庁ですか?」
「はい、警視庁前で保護者と待ち合わせになってしまって……。一時間くらいで着きますかね?」
日本国籍を持ってはいても、どうやら彼女は日本の地理に疎いらしい。
「送って行きますよ」
彼女に対して恩を売っても安室の得にはならないが、彼女を送ろうと思ったのは罪滅ぼし的な意識が発動したせいかもしれない。
幸か不幸か行き先も同じなのだし、悪手にはならないだろう。
「えっ、いいんですか……?」
「さんと一緒にいられる時間が増えるなら、願ったりですね」
歯が浮くような台詞を贈ってみても、が頬を赤らめることはない。付き合うことを決めたあの日はわずかに興奮していたようだが、思い返せばあれは遊び相手という単語に対して興奮していたのではないかと思う。
「近くのパーキングに車を止めてありますから」
「ありがとうございます、助かります」
少しだけ乱れた髪を片手で整えながら隣を歩くに、周囲の人間が視線を送っているのが分かる。
安室は見られることに慣れてしまっているが、もそうなのだろうか。
「さんは、普段はイギリスで仕事をなさってるんですか?」
「え?」
「日本の地理には疎そうだったので」
「あぁ……。職場はアメリカです」
「ホォー……アメリカ」
「はい。あの国は動きやすいので」
黒いニット帽を被ったFBIが脳内に躍り出てきたせいで、安室は自身の機嫌が急降下していくのを感じていた。何故とあの男の間に、奇妙な繋がりがあるように感じるのだろう。
気のせいだと思い込んでしまうには無理のある感情を、奥歯ですり潰しながら愛車へと乗り込む。
助手席に腰を下ろしたがシートベルトを締めたのを確認し、安室はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「安室さんには助けて頂いてばかりですね」
「恋人に手を貸すのは当然のことだと思いますが」
「恋人……ですか」
「変なことを言いましたか?」
の視線を感じながら安室が問い返すと、「恋人というよりも、友達じゃないんですか?」とが互いの関係性を指摘する。
「私自身恋愛というものから遠い場所にいるので明言は出来ないんですが、安室さんと私の間に恋愛感情というのはありませんよね」
「これはまた、厳しいことを」
苦笑で全てを流してしまおうとした安室の意図を読み取ったのか、は「別に良いんですけれど」と、珍しくふて腐れているような声色で音を綴った。
「僕は、さんのこと好きですよ」
「好きという感情にも種類がありますから」
「ふむ……どうすれば信じて頂けるんですかね」
女を落とすのは安室の十八番だ。特に、のような存在は少し強引に出てやれば簡単に落ちると、安室は経験則から導き出す。
「問題があるのは私の方なので」
「それは、どうして? と聞いてもいいのかな」
「新たな人間関係を築く際には、保護者の承諾がいるんです」
「……は?」
二十五にもなって保護者の承諾がいるなんて、もしかしてはどこかのお嬢様なのだろうか。
特徴的な外見から箱入り娘として育てられてきたという可能性はあるが、それにしても保護者とやらに依存しすぎなのではないかと安室は考える。
「安室さんのことはまだ話してないので……」
「僕が遊びで貴女に付きまとっているとでも?」
「そうは言ってませんけれど」
「ならば、その保護者とやらにご挨拶をすればいいですよね。警視庁前にいるらしいですし」
数十分前にが伝えてきた予定を思い返しながら安室が言うと、隣から驚いたような気配が伝わってくる。
「本気ですか?」
「本気だったらまずいんですか?」
売り言葉に買い言葉だと理解していたが、ここで引くのは癪に障ると、安室は刺々しい台詞を次々に具現化していく。
「捜し物が終わるまでの期間限定的な付き合いを求めているならば、諦めてください。僕はそんなに軽い男じゃない」
どの口が言うのだと自嘲する声を耳の奥で聞きながら、安室は口を閉ざしたを横目で盗み見た。
安室の言葉を精査しているのか、紅い瞳を細めて斜め下方を見つめている。
「まぁ、貴女の容姿でしたら男など選び放題だと思いますが」
酷い台詞を口にしていると理解していても、止まらない。まるであの男に向かって話しているようだと小さく舌を打った安室とは裏腹に、はことさらゆっくりとした動作で顔を上げ、前を見つめている安室の横顔へと視線を固定した。
「安室さんが本気だというのならば、遊ぶのは諦めます」
「前にも言ってましたね、僕ならば遊んでくれそうだと」
「はい」
遊ぶという単語が指し示すものは、男女間の火遊び的なものだと思っていたが、の態度から推測するに、間違っていたようだと安室は己の認識を改める。
「安室さんとのこと、ちゃんと、考えます」
が発した硬質な声に意識を引っかかれ、安室は隣の存在を確認するよう顔を動かした。
完璧と表現するに相応しい白い顔にかかる、白金のカーテン。その奥に見え隠れしている紅色は、普段よりも深い色を湛えているように見える。
一言で言えば、は美しい。
いつだったか、ベルモットが白というのは派手な色なのだと笑いながら言っていたことがあったが、を見ているとまさにその通りだと安室は視線を前に戻しながら考える。
儚げな色とは対照的な、強い意志を宿す瞳。
つい目で追ってしまうような存在感。
あの白い身体を腕の中に抱え込むが出来たら――とそこまで考え、安室は浮かんだ思考を全て振り払った。
彼女とのことは遊びだ。気になるから、手を出しているだけなのだ。
本気になっては――捕らわれてはいけない。
「あっ」
「どうしました?」
「指定場所に着いたと保護者から連絡が」
いつの間にかスマホを取り出していたの言葉に促され、安室が数百メートル先にあるであろう庁舎の方へ視線を向けると。
「一つ確認したいんだが」
「何をでしょう?」
「保護者の、名前は」
安室の網膜に焼き付いている存在が、暗闇の内側から抜け出したかのような姿で道ばたに立っている。
見間違いであってほしい。いや、見間違いであるべきだと、腹の底から沸き上がってくる怒りを安室が噛みしめていると、先に気付いたらしい相手が片手を上げる。
「赤井秀一ですけれど」
「あ……」
鼓膜を揺らした音に対し、反射的に赤井と叫んだ安室の横では目を丸くし、止まるはずの車が加速したことに対して、車内でおろおろするのであった。
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