『花嫁』に手出しをしてはならない。
僕がヘルサレムズ・ロットに来て、初めて聞いた噂がソレだ。
花嫁が総称なのか、はたまた個人を差す言葉なのかは分からないけれど、街の住人達はこぞって同じ台詞を口にする。
まぁ噂となっているくらいなのだから、共通な思考になっているのは当然だろう。
けれども、対象がハッキリしないものに対し、必要以上の警戒心を抱くのには何か理由があるはずだ。
記者を目指していた身なので、噂の出所を突き止めたいという欲は常にあるのだが、この世界で過剰な興味を抱くことは自分の生存率に関わるのだと、ライブラに所属してから思い知らされる事となった今では、行動に移す前にワンクッション置いてしまう。
クラウスさんを始めとした、個性の強すぎる面々に囲まれて過ごすこと数日。
いつの間にか相棒気取りのソニックと共に今日も命からがら出勤すると、見慣れない――否、一度見たら忘れないであろう存在がそこに居た。
「えっと……」
「これはこれは、レオナルドさん。さんに会うのは初めてでしたな」
「あ、はい」
物凄い美人というわけではないし、物凄く可愛いというわけでもない。
なのに、立っているだけで人目を惹き付ける存在。
身の丈に合わない大きな植木鉢を両手に抱え、可愛らしいエプロンをまとった少女は、僕の声に促されるよう振り返り、続いてゆっくりと破顔して見せた。
「あなたが、新入りさんですか?」
「えっ!? あ……ま、まぁ……そうです」
耳障りの良い声と柔らかな笑みに日頃の疲れが癒されるような錯覚を得ながら、と呼ばれた少女がギルベルトさんに鉢植えを渡すのを視線で追ってしまった。
「さんは花屋を営んでましてね、こちらの植物もさんに調達を依頼しているのです」
「なるほど」
ヘルサレムズ・ロットにおいて外見年齢というものは当てにならないが、彼女もそうなのだろうかと考えていたら、いつの間にか来ていたザップさんがクラウスさんに敗北を期している姿が、視界の端に引っかかり消えた。
「くん、この間は済まなかった」
「鉢植えのことでしたら、お気になさらずに……。ゲートがこちらで開いたと後で聞いた時は驚きました」
堕落王フェムトの暇つぶしに付き合わされ、酷い目にあったのがかなり昔の事のように感じると、一気に襲い掛かってきた疲労度を奥歯で噛み砕きながら、鉢植えを壊されたことにより苛立ちを覚えていたクラウスさんの姿を思い出す。
「植物は再生出来ますが、人間は同じようにいきませんから。皆さんがご無事で何よりでした」
わずかに目を伏せ、悲しげな表情と共に語るの声を聴いていると、何故だかこちらが泣きたい気持ちになってくる。
共感能力と称したら物騒かもしれないけれど、には笑っていてほしいという感情が、どこからともなく沸いてくる。
まだ出会って数分程度しか経っていない間柄なのに、どうして彼女には幸せでいてほしいと思ってしまうのだろう。
「んん?」
「おう、どうしたレオ。何か言いたそうな顔してんじゃねぇの」
「えっ……い、いえ、別に」
横目で彼女を確認すると、ギルベルトさんと話ながらメモ帳にオーダーを書き込んでいるようだった。
「ははーん、さてはちゃんが気になるのか?」
「えっ!?」
咄嗟に否定出来なかったのは、僕の落ち度だ。
これみよがしに人をおちょくろうとする、ザップさんの追求から逃れようと神経を研ぎ澄ませていたら、ぐしゃり、とこの場にそぐわない音が鼓膜を揺らした。
「え?」
温度の違う同じ単語を繰り返し、音の発生源と思われる方向へ視線を向けると、肩を震わせメモ帳を握りしめているの姿。
一体何が彼女を怒らせた原因なのかと首を傾げると同時に、クラウスさんが焦ったような雰囲気を纏い、ギルベルトさんと彼女の元に歩いて行く。
「あー……こりゃ荒れるぞ」
「どういう意味ですか?」
「レオも聞いたことあんだろ、花嫁の噂」
「それとこれとどういう関係が?」
「そのうち分かる」
口端を引きつらせて三人から視線を逸らしながら言うザップさんに、嫌な予感と呼ばれる感情が胸中を走り抜けたけれど、それ以上に驚いたのは彼女の口からあまり聞きたくない人名が飛び出したことだ。
「最悪……ほんっと、信じられない! あれ貴重な原種だったんですよ!? クラウスさん達なら大事にしてくれるって信じてるからお譲りしたのに……それをッ!」
白くなるほど手を握りしめ、今にも歯ぎしりが聞こえそうな表情と共に「失礼します」と、はこの場から立ち去る音を口にした。
「レオ、送っていってやったらどうだ」
「分かりました」
真実が知りたいんだろう、と視線で語ってみせたザップさんの提案に頷き、エレベーターへ乗り込もうとした彼女の後を追い、地上へ向かう箱の中へと身を滑り込ませる。
地上に着くまでの沈黙が気まずいかと思いきや、僕の予想とは裏腹に彼女と共有する時間はひどく心地の良いものだった。
「聞いてもいいかな?」
「なんでしょう、レオナルドさん」
「僕の名前知ってるんだ?」
「先程ギルベルトさんがおっしゃってましたから」
余計な確認は必要ないと態度で語る彼女に頷くことで同意を示し、小さな疑問を解消してしまおうと言葉を続けることにした。
「さっき、フェムトの名前を出してただろう?」
「はい」
それがどうしたと言わんばかりの彼女の態度に一瞬言葉が詰まったが、今を逃せば一生聞くことが出来なくなるという予感に突き動かされ、大事なのは勢いだと質問を重ねる。
「さんとフェムトはどんな関係なの?」
「私とフェムト、ですか……」
変な問いかけだと理解していても、彼女への質問はそれ以外に考えられないのだから仕方ない。
ザップさんが口にした花嫁という単語と彼女の関係性も気になるし――と考えている内に、いつの間にか地上に繋がるドアが開いていた。
「話せば短いんですが」
「短いんだ!?」
「はい。フェムトは私の後見人なんです」
「なるほど、フェムトが君の後見……なんだって!?」
いま、物凄くさらりと重要なことをは口にしなかっただろうか。
「普通に考えて、私くらいの歳の子供が花屋を営んでいるなんておかしくないですか」
「えっ、それ自分で言うの……? というか、さんの年齢を聞いても?」
「今年で十一になります」
「なるほど、じゅうい……十一!?」
先程から驚いてばかりの僕に呆れることなく、彼女は口にした年齢からは想像も出来ないほどの冷静さで、外界に繋がる一歩を踏み出した。
「ご、ごめん、理解が追いつかないんだけど」
「私も詳しいことは知りませんが、本人がそういうのですから、そうなんでしょう」
「はぁ……な、なるほど? じゃあ世間が言う花嫁っていうのは、君の――」
「だからこそ、許せないんです。私が丹精込めて育てた鉢植えを、フェムトの気紛れで壊されたんですよ! 最悪、最悪です! もう、最悪!」
怒りが蘇ってきたのか、足を止め再び肩を震わせ始めた彼女に、どのような声を掛けて良いのか分からない。
というか、自分の脳がキャパオーバー状態に陥っているのを感じる。
あらゆる魔導に精通し、千年を生きていると言われているあの堕落王フェムトが、花屋の少女の後見人。
意味が分からないと叫び出したい気持ちとは裏腹に、希代の怪人たる存在から特別視されているこの少女は、何者であるのかという疑問が沸き上がってくる。
見た目は普通。
存在感は一級品。
けれども、様々な要素を足し引きすれば、やはり普通の少女であるという結論が導き出される。
ごく普通の少女と怪人と呼ばれる存在の間に、明確な繋がりを見出すことが出来ず口を噤む結果となった僕の眼前で、彼女は大きく息を吸い一つの感情を具現化させた。
「フェムトなんて、だいっきらい!」
一瞬にして時が停止したような錯覚に陥った、と感じたのも束の間。
「本当に止まってる!?」
道路を走っていた車も、反対側の歩道を歩いていた通行人も、僕と彼女以外の人間はまるで彫像になってしまいました、と言わんばかりに動きを止めている。
何が起こっているのかと事態を把握する前に、おそらく時を止めたであろう人物――フェムトがいつの間にか彼女の前に立ち、両手に花束を抱えたまま弁解していた。
なんだこれ、悪夢か。
「わざとじゃないんだ、それは君だって分かっているだろう!?」
「知らないもん! フェムトのせいで壊れちゃったんだもん!」
「あの鉢植えが欲しいなら取り寄せて――」
「私が育てたことに意味があるの! それすら分からないフェムトなんて、だいっきらい!」
二度目の大嫌い攻撃にフェムトは全身をよろけさせ、胸元を片手で押さえたまま唸り声を上げる。
これは本当に堕落王フェムトと呼ばれる人物なのだろうか。実は他人の空似なのではないだろうか。
だってそうだろう。
血界の眷属なんて噂すらされている存在が、たった一人の少女に言い負かされているなんて信じられない。
しかも、大嫌いという稚拙な感情によって、だ。
「なぁ、私が悪かった。機嫌を直してくれないか」
「やだ」
「そう言わずに」
「……」
「」
「……なら」
「なら、なんだい!?」
唇を尖らせ不満を前面に押し出しながら、は「アイス買ってきて」と耳を疑うような言葉をフェムトに向けていた。
「この僕にアイスを買いに行けと!?」
「嫌ならいいもん。フェムトとさよならするだけだもん」
「待ち給え、アイスの一つや二つすぐに入手してみせようじゃないか!」
「ちゃんとフェムトが買いに行くんだよ」
「了解したッ!」
口元に弧を引き、持っていた花束を彼女に押しつけ、軽い――スキップと呼ぶに相応しい足取りでコンビニの方へと向かっていく堕落王の姿は、悪夢以外の何物でもない。
これは夢なのではないか。否、夢であるべきだと天を仰いだ僕に「レオナルドさん、一緒に食べましょうね」という、悪意の無い死刑宣告が発令されたのであった。
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