「くんの元に届けてくれないか」と呼び止められ、クラウスさんから紙袋と地図を預かったのは数十分前の出来事だ。
彼女が営んでいるらしい花屋は、ライブラが拠点としているビルからそう離れておらず、何よりクラウスさん直筆と思われる見やすい地図のお陰で、迷うことなく目的地へたどり着くことが出来た。
一見何の変哲も無い小さな花屋の軒先には、ヘルサレムズ・ロットでは珍しいと思える優しい色合いが肩を並べている。
思わず立ち止まってしまいたくなるような魔力は、ある種、彼女の経営手腕であると評価するのが妥当なのだろう。
そうでなければ、子供と言っても差し支えのないが、花屋を続けていられるはずがない。
いや、もう一点、彼女が仕事を続けていられる可能性があるにはあるのだが、彼の存在は仕事をするという単語からは縁遠い位置に腰を据えているので、やはりこれは彼女一人の功績であると考えた方が良さそうだ。
「えっと」
柔らかな光の溢れている店内を覗き込んでみても、目当ての人物を見つけることが出来ない。
店を空にして出かけるということはなさそうだし、たまたま席を外しているだけど考える方が無難なのだが、なんとなく……そう、なんとなく胸騒ぎに似た感情がじわじわと自分の体内に増えてきたのを感じ、僕は意を決して店の中に足を踏み入れることにした。
「こんにちは、さんいますか?」
少し大きめの声で彼女の名を口にしてみても、返事はない。
「さーん、クラウスさんから預かってきた物があるんですが」
今度は先程よりも大きな声で彼女の名を口にしてみたが、耳障りの良い彼女の声が僕の耳に届くことはなかった。
「困ったな」
書き置きを残してもいいのだが、なんとなく、あのクラウスさんからの預かり物だと思うと、誰も居ない場所に放置していくのは気が引ける。
そもそも、この中身はなんなのだろうと試しに紙袋を揺すってみると、ガサガサと中に入っている物が揺れはするものの、特にこれと言った特殊な音もなく、すぐさま揺れは収まってしまった。
「裏口から搬入でもしてるのかな?」
花屋というくらいなのだから、植物の仕入れなどもこなしているのだろう。
「失礼しまーす」
店の奥に設置されている、なんだか高そうなカウンターを横目に奥へと進み、彼女が事務所として使っているらしいスペースを通り抜けて外へと繋がっているであろう扉の前に立つ。
「いてくれると良いけ……ん?」
扉越しに伝わってくる騒がしい気配に、ドアノブに掛けた手を一度引っ込めると同時に、扉に片耳を押し当て外の様子を把握すべく神経を傾けた。
「言い争い……か?」
聞き覚えの無い男の声と、こちらはの声だろうか。
ともあれ、男性が怒鳴り、女性が何かを受け答えしているらしい音が扉を隔て聞こえてくる。
「ちょっと、これマズイんじゃないの?」
思わず小声で呟きつつも、おそらく彼女の有事にはあの男が姿を現すに違いないという確信のせいで、僕は自らが動くことなく現状把握に努めていたのだが。
「えっ!?」
突如鼓膜を揺らした発砲音に気付いた時は、今までの考えなど全て吹き飛び、ドアを押し開け外の光景を両目に映し取っていた。
「さん! だいじょ……え!?」
黒光りする凶器を手にしているのは他ならぬで、灰色の地面に横たわっているのは屈強な男性だ。
「な、なっ!?」
「こんにちは、レオナルドさん。本日はどのようなご用件で?」
おそらく、否、確実に一人の命を奪った直後だというのに、彼女は顔色一つ変えずに僕に向け挨拶の言葉を口にする。
「あ、えっとクラウスさんから……って違うよね!? そ、その人大丈夫なの!?」
「死んでるから問題ないと思います」
「そっか、死んで……大問題だよね!?」
一日に数え切れないほどの命が失われていても、それが目の前で――しかも、見知った少女の刈り取った命だとなれば話は別だ。
「ちょ、ちょっと、さん……ッ!」
「レオナルドさんの言いたいことも分かる気がしますけど、とりあえず中に入りませんか? 丁度お茶の準備をしていたところだったんです」
「な、中に、ってあの人どうするの!?」
「大丈夫です、その内無くなりますから」
「いやいやいや、そういう問題……なの? え、ちょっと……え? ぼ、僕がおかしいの?」
狼狽える僕の前で小ぶりな銃を、こともあろうかスカートを景気よく捲り上げ、レッグホルスターに収納した彼女から慌てて視線を逸らし、こんな場面を稀代の怪人に見られていたら……と考えた途端、不穏な結果が脳裏を占拠した為、慌てて頭を振り仮説を外に追い出した。
「私みたいなのがお店を持っていると、頻繁に厄介ごとに巻き込まれるので、慣れてしまったんです」
言外に、僕がまともであると肯定してくれた彼女の優しさを噛みしめながらも、気になるのは一向に姿を現す気配の無いあの男のことだ。
「え、っと……」
「フェムトならいませんよ」
「あ、そ……そうなんだ?」
「ええ。仕事の邪魔をしないでくれと、お願いしてありますので」
お願い、という単語を彼女は口にしたが、これは確実に以前見た「大嫌い」の同類が発動されたのだと推測し、曖昧な笑みで対応することにする。
経緯はどうであれ、あの存在がいないならば、自分の身は安泰だ……安泰のはずだ、多分。
「で、その、アレ……」
死体と声に出してしまうのを躊躇った僕に対し、「無くなります」と同じ台詞を口にした。
「無くなるって」
「言葉通りです。どうもフェムトが何かしてるらしくて……まぁ、こちらとしてはありがたいので放置してますけど、あっ、でも聞いて下さい! 前に一度処理に来てくれたらしい女の方と出会って! その方がとっても綺麗な方でしてね、私思わず……」
「こっ、紅茶は大丈夫!?」
「そうでした、私としたことが。さ、改めてどうぞ、レオナルドさん」
「お邪魔します」
白い肌を紅潮させ、ヒートアップしそうだった彼女を沈静化させた事に対し安堵を感じながら、とりあえずという存在について深く知るのは危険であると自身に言い聞かせる。
東洋の方で、触らぬ神に祟り無しという言い回しがあるようだが、彼女がまさにそれであると、背後の存在を視界に収めることなく後ろ手に店のドアを閉めた。
「散らかってて申し訳ないんですが、空いている椅子におかけ下さい」
「ありがとう」
店内にあったカウンターもだが、書類の置かれている机といい、今から座ろうとしている椅子といい、彼女の店に設置されている調度品はどれも高そうで、アンティークと呼ばれる類いのものなのではと、嫌な汗を背中にかきながら椅子の背もたれに手を掛ければ、僕の感情を見越したかのように、彼女が「気にしないでください」と柔らかな音を綴った。
「お店の物は、全部フェムトが勝手に置いていったものなんです」
「そ、そうなんだ」
「はい。物の見立てすら出来ない小娘に高い物を買い与えたところで、宝の持ち腐れになるのは分かりきってるのに馬鹿な人ですよね」
「あはは」
心底理解しがたいといった表情で音を綴る彼女に対し、どう言葉を返すのが適切なのかが分からない。
こんな時ギルベルトさんやクラウスさん、それにスティーブンさんなら相応の返答を用意出来ただろうに……と悔いてみても、僕は僕なのだから仕方ないと苦笑でごまかす。
そうして、やはりフェムトという存在から特別視されている彼女は、紛うことなく『特別』な存在であるのだと再認識するのだ。
「あ、忘れてた。これ預かってきてたんだ」
「クラウスさんからでしたよね、ありがとうございます」
僕が机の上に置いた紙袋に手を伸ばす彼女は、どことなく嬉しそうな雰囲気を纏っている。
あれ、と内心首を傾げると同時に小さな手が袋を開封し、いつの間にか用意されていたこれまたちょっとお高そうな白磁の皿に、素朴な色合いをしたドーナッツが置かれるのをじっと観察してしまった。
「流石です、この色合いといい……完璧です! とっても美味しそう! やはりクラウスさんに頼んで正解でした!」
ドーナッツに対し喜びの感情を前面に押し出す彼女は、年相応の少女に見える。
「ああ、秋の小麦を彷彿させるようなこの絶妙な色合いに、近づけると漂う素材の香り。どこをとっても満点です! このドーナッツが市販されていないのが悔やまれます。世界にとって痛手……いえ、それよりも、この素晴らしい恩恵を賜ることの出来る数少ない存在の一人になれたことに対し、どのような敬意を表せばいいのか……」
「さん、紅茶の方は大丈夫、かな!?」
「そうでした、危うく蒸らしの時間を間違えるところでした。ご指摘ありがとうございます、レオナルドさん」
オンオフの切り替え……というか、テンションの差が激しすぎる。
こういう部分をフェムトが好んでいるのだろうかと推測してみたけれど、彼の存在に対しては塩対応をしている姿しか見たことがないので、上手く妄想することが出来なかった。
「そういえば、前にクラウスさんから貰ったドーナッツも美味しかったな」
「当然です、これはあの方が作って下さったのですから、美味しくないはずがありません」
手慣れた動作で紅茶を入れ、やはり高そうな皿と揃いのティーカップを受け取り、席に着いた彼女が「頂きます」と手を合わせる様を見つめた後、ドーナッツへと手を伸ばす。
「さんは、作ってくれた人のことを知ってるんだね」
「はい、勿論です。私がクラウスさんにお願いしてもらったので……というか、レオナルドさんもご存じの方だと思いますよ」
「えっ!?」
「頑張って悩んで下さい。あ、でも食べるときはドーナッツに意識を集中してくださいね。そうでないと、作って下さった方を冒涜することになりますから」
どれだけドーナッツを愛してるんだ。ドーナッツにかける愛情の一欠片でもフェムトに回してあげたら、堕落王の暇つぶしに僕達が巻き込まれることもないのではないか。
「はぁ……美味しい」
恍惚とは、いま目の前で片手を頬にあて、ご満悦だと目尻を下げている彼女の表情を差すのだろう。
たしかにこのドーナッツは美味しい。ものすごく美味しいし、何個でも食べたくなってしまいたい気分に駆られる。
「そういえば、私が躊躇いなく銃を撃った事実を、レオナルドさんは異常だと感じたんですよね」
「ごほっ!」
いきなり切り出された本題に、危うく飲んだ紅茶を噴き出す所だったと袖口で口端を拭い、説明してくれるらしい彼女に対し頷くことで先を促す。
「驚くことはないと思いますけど……いえ、前提が違うんですね、多分。実は私、ヘルサレムズ・ロットに来る以前の記憶がないんです」
「え?」
「来る、っていうのも正確な言い方ではないんですけど、気がついたらフェムトがいてやりたいことを聞かれて、こうして花屋をやっているんですよね」
「え……?」
「不安は無いかと問われたら、無いと答えるしかないんですけど……。だから、この街の状態が異常だとか思考回路が破綻しているとか言われても、比較対象をしらないので、そうなんですか、とお答えするしか出来ないといいますか」
比較対象を知らないから分からない、という彼女の言い分は筋が通っている。
もし、彼女の言い分を耳にしたのが僕ではなく、この世に一定数いる自らの常識をひけらかしたいという欲を持つ存在であったら、彼女に一般的な教育を施そうと手を伸ばすに違いない。
けれども。
「ここだけの話ですが、私、幸せなんです」
視線を下に向け、恥ずかしそうに喋るを見ていると、大人びていてもやはりこの子は少女なのであると確信する。
「好きな事をさせてもらえて、好きな事をする環境を認めてもらえて。何も知らない私という存在にそれらを与えてくれたフ――」
「やぁやぁ! 呼ばれた気がして出向いてやったぞ!」
瞬き一つの間に沸いて出た存在を認識し、食べかけだったドーナッツを皿に落とすと、真後ろの近距離から声を掛けられたらしい彼女は、先程とは打って変わり呆然とした表情で足下を見つめていた。
見知っているとはいえ、前触れ無く第三者が自分の、しかも真後ろに出現したら誰だって驚く。
声にはならなかった驚きのせいで、持っていたドーナッツを落としてしまったとしても、なんらおかしな点はない。などと、彼女を庇護するような考えが脳内を高速で反復横跳びし始めたのは、この後に繰り出されるであろう彼女の攻撃がなんであるかを既に知っているからだ。
「ん? どうしたんだい、私の。まさか腹が痛いのか!? だとしたら一大事だ、すぐにでも検査を……いや、ここは先に原因となるべき物質を作った対象を排除すべきか。さて、君の口に入る物を用意したのは何処の誰だ。僕が直々に出向き糾弾せねばならぬだろう」
「うるさい」
「なんだって、声も出せないほど痛い? いよいよもって大事件じゃないか!」
「煩いって、言ったの! どうしてフェムトはいつもそうなの!?」
怒りが限界点を突破し逆に血の気が失せたのか、真っ白な顔のまま細い肩を震わせ、彼女は音を立て椅子から立ち上がり表情の読めない怪人へと向き直る。
「おやおや、あまり怒ってばかりいると皺が消えなくなるぞ。まぁ君に皺があろうがなかろうが、僕は気にしないがね」
何も理解していないらしいフェムトに対し、彼女がギリッ、と歯を食いしばる音が聞こえた気がした。
ああ、これは来るぞと両手で耳をふさぎ、来たるべき衝撃への対処を完了させる。
「何度も言わせないで! フェムトなんて、大っ嫌い!」
「んなっ!?」
やっぱりまたこのオチになるのかと、漫才のような二人から視線を逸らしながら、二人の……正確には彼女の意識が完全にレオナルド・ウォッチという人間から離れているのを確認し、僕は食べかけのドーナッツを片手に携え、店の裏から本拠地へ戻るのであった。
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