「せーんぱいっ!」
「うわ、っと。今日和、木ノ瀬君」
 背後からの衝撃に一瞬天羽君かと思ったが、どうやら違ったらしい。
さんは随分木ノ瀬に懐かれたみたいだね」
 振り返ると同時に向けられた柔らかな声に視線を動かすと、背中に張り付いたままの木ノ瀬君が「部長」と小さな言葉を漏らした。
「そうですねぇ、猫がもう一匹増えた気分です」
「先輩、猫って僕の事じゃないですよね」
「さぁどうでしょう?」
 私の言葉にわざとらしく拗ねた表情をつくり、木ノ瀬君が背中から離れる。夏という季節柄こんなことを考えるのはおかしいと思うが、空調の効いた室内にいるせいで少しばかり離れた温もりが恋しくなってしまった。
「僕としてはもう一匹の猫が気になるな」
「さすが金久保先輩。お気づきになりましたか」
 伏せた事実を優しい眼差しで聞き出そうとする金久保先輩は油断ならない。改めてこの人が部長という位置に就いている理由を知った気がすると口元を緩め「そうですねぇ」と言葉を濁す。
「大きな猫にはその内会えると思いますよ」
「え?」
 聞き間違いかと目を瞬かせる金久保先輩に「これ以上は内緒です」と口を閉ざし、以前頼まれていた弓道部への差し入れを作るべく食堂へと向かった。

 

「木ノ瀬君は一緒に来ちゃって良かったの?」
「はい、次は休講なんです」
「宇宙科でも休講があるなんて珍しいね。講師の人が体調不良とか?」
 数ある教科の中でも、もっとも過酷で忙しいと言われている宇宙科。かなり厳しいスケジュールだと聞いたが、講義時間は大丈夫なのだろうか?
 後日補習でもあるのかと首を傾げた私に、木ノ瀬君はこちらの疑問などお見通しとばかりに勝気な笑みを浮かべ言う。
「休むことも、仕事なんだそうで」
「ああ、なるほど」
 常に全力疾走し続けるよりも、適度に休憩を入れたほうが効率が良い。しかし、まさかそのためにわざと授業を休みにするとは……これが教師の飴と鞭なのだろうか。教師と生徒の駆け引きは思っている以上に楽しそうだと思いつつ、手際よく準備を進めていく。
「何作るのか聞いてもいいですか?」
「うん、今からクッキーとシフォンケーキを焼く予定です」
 疲れた時には甘いものというし、なにより弓道部には大の甘味好きである宮地君がいる。
「シフォンケーキって……もしかしなくても宮地先輩用ですか?」
「ご名答」
 バニラビーンズをたっぷり効かせた堅めのクリームと、ほのかに苺の甘酸っぱさが残るシフォンケーキ。人にあげる時にはまず自分が食べたいものを作るのが重要だと今回のラインナップにしたが、木ノ瀬君の表情を横目で伺うと僅かに眉が寄っていた。もしかしなくても彼は、甘いものが苦手なのだろうか?
「木ノ瀬君、甘いものが苦手だったら他の作るよ?」
「いえ、そういうわけではないんですが」
 嫌いではないとしたら……宇宙科ならではのカロリーコントロールに引っかかるということだろうか。彼等はお昼ご飯に宇宙食を義務付けられているくらいだし、甘味の差し入れは食べたいけれど食べれない。という、ある種の嫌がらせにあたってしまうのかもしれない。
 はてさて、どうしたものか。
「んー、おからクッキーとかにしておこうか?」
「僕のことはお気遣いなく」
「そう? 注文するなら今だよー」
 時間限定受付中です、と言葉にすると木ノ瀬君が困ったように笑う。
「なんでもいいんですか?」
「あまり難しいのは無理だけどね」
 話しながら混ぜた生地を星型の型で抜きながら木ノ瀬君の言葉を待つ。
「……木ノ瀬君?」
 するりと背後から回された腕に振り向こうとしたが、視界に入った黒髪に彼が肩口に顔を埋めていることを理解し止めた。
先輩」
「んー?」
 部活動では勝気な彼が甘えているという事実が、私に優越感をもたらす。天才には天才にしか分からぬ何かといつも戦っているのだと想像出来るが、木ノ瀬君は葛藤を表に出そうとしない。常に飄々として何事もそつなくこなしてしまう彼が弱っている姿なんて、見ようとして見られるものではないから……少しだけ気分がいい。
 そこまで考えて、私も性格が悪いなぁと自嘲を漏らし、再度木ノ瀬君にリクエストを尋ねる。
「だから、先輩が欲しいです」
「……ん?」
 人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべこちらを見つめる木ノ瀬君。間近で目にした彼の表情に目を眇め、粉で汚れた両手で彼の黒髪を掻き乱した。
「ちょっ! 何するんですか先輩!!」
 シンクの前に行き慌てて汚れを払い落とす木ノ瀬君を見つめながら、私をからかうなんて十年早いと心の中で勝どきをあげ。
「残念ながら、非売品です」
 数秒後に浮かぶであろう木ノ瀬君の表情を思い浮かべ、今度は声を出して笑った。

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