月子ちゃんに遅れること三十分。通い慣れてしまった保健室へ向かえば妙に騒がしい。
「……というか、聞き覚えのある声が」
 保健室の主である琥太郎さんと保健係である月子ちゃんに混じって、無駄な色気を振りまく声。これはどう足掻いても彼以外の人物である可能性は極めて低いと眉根を寄せ、どう対処すべきか逡巡する。
 彼のことだから自分の姿を見たら確実にネタにしてくるだろうし……かといって、噂の教育実習生が彼のことだったら、いつかは必ず遭遇してしまう。
 問題を先延ばしにすべきか、厄介事は早く片付けてしまうか。嬉しくない二択で揺れていたら、自動ドアよろしく目の前の扉が動き中から出てきた月子ちゃんと危うくぶつかるところだった。
「わ、っとちゃん!」
「ごめん、遅れて今来たんだけど……もう用事は済んだ感じ?」
「あ、うん」
 どこか元気のない月子ちゃんから想像するに、あの天の邪鬼に何か言われたのだろう。まったくもって、無駄に体の大きい子供なのだから手に負えない。
「部活頑張ってね」
「うん! 行ってくるね」
 夏の終わりに金久保先輩が引退し、今は宮地君が弓道部部長を務めているのだと先日月子ちゃんから聞いた。今年に引き続き来年もインターハイ優勝を目指すのだと張り切っていた彼女は眩しくて、思わず目を細めてしまったのはつい最近の出来事だ。
 行ってらっしゃいと去っていく月子ちゃんの背に声を掛け、保健室の中にいるであろう問題児に気持ちを切り替える。
「……え、……?」
 案の定驚いたような顔でこちらを凝視している問題児。そんな彼を横目で見ながら笑うのは怠惰の似合う保険医だ。
「相変わらずの女泣かせね、郁さん」
「な? え?」
 未だ惚けたままで立ちつくしている彼の前まで歩き、無駄に高い身長を潰すべく彼のシャツを引っ張った。
「ッ!」
 どさりと音を立ててベッドの上に座る郁さんを見下ろし、先ず言うべきは一つ。
「初めまして? それともお久しぶりと言った方がいいかしら? 水嶋郁教育実習生?」
「やっぱり……でしょ」
「同姓同名の他人でなければ、貴方の知るでしょうね」
 作り物の笑顔を貼り付け切り返せば、郁さんの視線が険しさを増す。
「なんでそんな格好してるの」
「似合わない?」
「似合って……る、けど」
 女性関係は最悪だが、フェミニスト精神は健在のようだ。
「ちょっと琥太にぃ、どういうことなの」
「俺じゃなくて当人に聞いたらどうだ」
「……」
 味方だと思っていた琥太郎さんからの冷たい言葉に口をとがらす郁さん。こういう仕草は昔と変わらないのだと微笑ましく見つめていたら、急に片手を引かれバランスを崩し郁さんの胸元へと倒れ込んでしまった。
「わ、っと何するの」
 空いている手で郁さんの肩を押すが、腐っても男子というか、なんというか。片手を拘束されたまま腰に回された手はびくともしない。

 間近で囁かれる声は甘く、胸の奥に形容しがたい不快感を巻き起こす。
「郁さん、おいたが過ぎるのではなくて」
 薄いレンズ越しから送られる視線を正面から受け止めると、雰囲気に似合わぬ苦しそうな色合いが見え隠れする。視線を逸らせと語られたて逸らしてあげるほど私は出来た人間ではない。
 数分か数秒か、短くも長く感じる時間の工房は、彼が私の拘束を解くことで終わりとなった。
「君はつまらない」
「光栄だわ」
 間髪入れぬ切り返しに、再度郁さんは「つまらないよ」と同じ単語を繰り返す。
「お前達は相変わらずだな」
 そんな私達を横目に、月子ちゃんの淹れたマズイお茶を啜る琥太郎さん。
 いつかと良く似た風景だ。ぼんやり浮かんだ単語に微笑を漏らせば、未だ近い距離にいる郁さんが怪訝そうな瞳で私を見つめる。
 傍にいてと視線は語るのに、口から出てくるのは思いと正反対の言葉だけ。常に己の本心と違うことを言ってしまう彼は、やはり猫に似ている。
 首を撫でたらゴロゴロと喉を鳴らすのではないかと空想しつつ、首の代わりに癖のある髪を数回撫でる。
「何するの」
「嫌いじゃないでしょ」
「嫌いだよ、なんて」
 言葉にすればするほど傷つくのは自分だと理解しているだろうに、どこまでも不器用な男だ。
「そう? でも私は好きだけどな」
 郁さんの髪はふわふわしてて気持ちいいし。続けた言葉にちらりと視線を寄越す大きな猫。
「馬鹿にしてるでしょ」
「被害妄想って言葉知ってる?」
 気にしてないと告げるようあやすように頭を叩けば、あるはずのない猫の耳がぴくりと動く幻覚を見た。

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