僕と君とは、名前も知らない関係。
Snow Dance
「こんばんは」
「やぁ」
予期せぬ来訪者を心待ちにするようになったのは、いつからだっただろうか。突然現れては消える彼女を、不審に思わなかったといえば嘘になるが、不信感以上に心が躍るのも確かな現実で。
「今日は何しに来たの、幽霊さん」
「うっわ、まだそういう事言いますか」
私生きてますよー。と決まり文句を口にする彼女は、どこからどう見ても実体無い幽霊そのもの。実体の無い彼女の相手をするなんて、僕もとうとうヤキが回ったか、と自嘲した時期もあるが、不思議と彼女と話していると楽しいと感じるから許してあげよう。
「で、今日は何」
「いや……私も好きでここに居る訳じゃないというか、なんというか」
人の時間を奪っておいて、好きで来た訳ではないと言うのは侮辱に値すると、ワザと嫌みたらしく言葉を放てば、面白いように慌てる彼女。
本当に面白い。
「あのですね、こぅなんと言いますか、来たくても来れないというか、来たつもりがないのに来てし まっているというか、だから……その、そんな感じで……あ、あのぅ」
「分かってるよ」
仮に君の言葉が本当だとしたら、生きている人間が名も知らぬ男に霊体で会いに来るというのは酔狂な話だろう。
安っぽい恋愛話でもあるまいし。
「君、僕の事好きなの」
「は!?」
「だから、そんなにまでして僕に会いたいのかって聞いてる」
「ええええ!?」
「馬鹿じゃないんだ、それくらい分かるだろ」
思いついた考えは駄策と呼ぶのに相応しいけど、彼女をからかうには十分すぎる威力を発揮する。ほら、思った通り返答に悩んでる。なんてからかいがいのある玩具。
「いやーでも……名前も知らないし……なんで来てるんだろ、私」
「それだ」
「はい?」
「名前だよ、君の」
特に知りたいと思ってなかったけど、固有名がないというのも不便だ。それに、彼女の名が分かればそこから新たな策も立てられるというもの。
「あれ? 言ってませんでしたっけ」
「君は馬鹿か」
「ちょっ酷くないですかそれ!」
「失礼。君が死んでいるという事を失念していたよ。脳が働いてないのだから、物忘れが激しくて当然だね」
「うっわ……」
この人サドだ。と心外な言葉が聞こえた気がしたが、僕は寛大だから今回だけは見逃してあげよう。さ、僕が待っていてあげる間に言うんだ。胸の内で呟いて待つ空白の時間は、思っていたよりも心地良い。これも彼女が相手だからなのだろうか? だとしたら……。
「…………ですよ」
「ん?」
「だから、私の名前」
「すまない聞いてなかった」
「……自分で言っておいて」
「何か言った?」
満面の笑みで問えば、滅相もございません。と彼女が頭を振る。
本当惜しいよ、君がこの場に存在しないという事実が。こんなに面白い人材を側に置いておけないなんて、残念だ。
「だーかーら、です。私の名前」
「……」
「はい」
もう一度口の中で彼女の名を呟けば、しっとりと胸の内に降りてくる。
「似合ってる」
「え」
僕にしては珍しく素直な感情を告げれば、面白い程に顔を赤らめる。その頬に触れてみたいと思い始めたのはいつからだったか。触れてみたい、笑う振動を直接感じてみたい、と考えるようになったのは、一体いつからだ。名を知り、以前にも増して焦がれるこの感情は不要なものだと、疾うの昔に捨て去ったはずなのに。
「」
「はい?」
確かめるよう口にすれば、小首を傾げる仕草が焦燥感を煽る。
こんな、僕の心を乱す存在は、いらない。
「何故君を殺したのが、僕ではないんだろう」
「ちょっ……」
君の命を奪ったものが憎い。最後の瞬間見せた表情は、きっと甘美であったに違いないのに。
「何度も言ってますけど、生きてますってば!!」
「……口付けてみても?」
「え? ええ!? むっ、むり、です……から」
触れている感触のない頬。近づいても感じない吐息が、はここに実在しないのだと改めて伝えてくる。死者である君を己の物にしたいと考える僕は、相当病んでいるに違いない。
「僕は……君が欲しいのか?」
「そ……そんなこと、私に聞かれても……」
少し力を入れたらすり抜けてしまう手。けっして叶うことのない現実を願うのは、馬鹿馬鹿しいと理解しているのに。
「冗談だよ」
離れる僕をみて、あからさまにほっとした表情を浮かべるに、微かな苛立ちすら覚える。いつから僕はこんなにもに執着しているのだろう。自身で制御出来ない感情は、判断を鈍らせる材料でしかありえないのに、厄介なものを欲しくなってしまった。
「もし、君が本当にこの世に存在するなら」
「だーかーら……」
奪っていいかい?
続いた僕の言葉にの動作がぴたりと止まる。
「ねぇ……?」
「あ」
僕の前に居るのに僕を見ない、の視線が何を捉えたのか気になって。彼女の視線を追うべく顔を逸らせば、ひやり、と冷たいものが頬に触れた。
「雪……」
ゆっくりと落ちてくる白い物体。空気中の塵芥が詰まっているそれを、綺麗と感じた事はなかったけれど。
「綺麗」
「うん」
が言うなら、綺麗だと思ってやってもいい。
「私、雪って好き」
何もかも覆い尽くして、真っ白く塗り替えて。
「厄介なだけだ」
「そう? ロマンチックじゃない」
「他者の言い分だね」
「容赦もへったくれもないんだから……」
少しずつ量を増して地面を覆い始める白と、静寂。
「寒くない?」
「別に」
実体のないは寒さすら感じないのだろう。
足下から這い上がってくる冷たさは、嫌いじゃない。着実に奪われていく体温と共に、不要な感情も凍結してくれそうで、微かに安堵する。たかが女一人に、心を乱されるなんて……竹中半兵衛としてあってはならぬこと。
「?」
じっと僕の方を見る彼女に、ひとつ心臓が鳴る。
「ねえ」
先程逃げたというのに、今度は近づいてくる彼女の手。なんて気ままで、我が儘なんだろう。そうだ、という存在は僕の理解の範疇を超えている。だからこんなにも気になるのだろうと一つの推測を立てれば、それは正しいものであるような気がした。
「前から思ってたけど」
触れる冷たさは、彼女のものか、それとも雪か。
貴方、雪みたい。
そう言って彼女は笑った。
END |