夢を、見た。
胡蝶の夢
穏やかな日差しが降り注ぐ午後、縁側で微睡みを嗜んでいた私の耳にある音が届いた。百歩譲っても好ましいと言い難いその音に、渋々腰を上げる。火の粉は降りかかる前に逃げるに限る。幸い敵前逃亡とも言える行動を窘める者は未だここにはいない。と、なれば。
「逃げるが勝ち、ってね」
地面に降り立てば足下が暖かな気がした。
「Hey! girl!! そこに居ろ!」
逃げだそうとした矢先、Understand!? と怒鳴る声が響き渡り、私は己の希望が潰えた事を理解した。
この人って視力良かったの……? 私と政宗さんの間には直線で換算してもかなりの隔たりを有している。逃げるには十二分な距離だ。もしかして視界に入っただけでもアウトって事? 荒々しく近づいてくる足音を聞きながら、盛大な溜息を付いた。
「どうしたんですか……そんなに苛立って」
廊下から見下ろすようにしてこちらを見る政宗さんは、はっきり言って近づきたくない部類に入る。何が悲しくて八つ当たりの的にならねばならぬのだ。悪いけど私は虐められて喜ぶような趣味は持ってない。
「……ここで何をしていた」
「へ?」
早く答えろと急かすように鳴らされる足音が嫌な感じだ。
「何をって……別にのんびりしてただけですけど」
それが何か? と目線で問えば、返ってくるのは舌打ちのみ。
ちょっと待ってくれ。
私が一体何をした!?
のんびりしていただけで舌打ちされる義理など無いと、問いつめる事が出来ればどんなに気が晴れる事か……。出来ない願いを胸の内にねじ込んで、当面不機嫌な政宗さんを煽らないように口を噤んだ。
「……だからお前は嫌なんだよ」
はい?
一方的に怒鳴られて、今度は嫌だ? ……キレてもいいですか? というか、私が納得するような理由を述べて頂きたい。理由も無く当たられて、怒らない人が居たらそれこそ聖人だ。いや、むしろこの時代にはいそうか。だが、お生憎様。私はそこまで出来た人間じゃない。
「八つ当たりなら他の人にどうぞ」
満面の笑みを張り付けて言えば、面白い程に政宗さんの口角が引きつった。
「私を政宗さんの尺度で計らないで」
毅然とした態度で述べれば嘆息にも似た息が漏れる。そこで初めて、政宗さんの纏う雰囲気がおかしい事に気付いた。
先程まで纏っていた怒りはすでに消え、まるで追いつめられたような、そんな不安定な気配さえ醸し出している現状。
「……何か、あったんですか?」
発した単語に軽く揺れる肩。
「Ha! 何もねぇよ」
返される言葉にいつもの覇気は無い。本当に……何か、あったのだろうか?
今こそ違うが、政宗さんも上に立つ人である事には変わりない。政治的な面でいざこざがあるのも当然。政治関係でないとしたら、もっとプライベートな悩みを抱えている可能性もある。どちらにせよ。
「らしくないですね」
「Ah-han、……喧嘩売ってんのか?」
今の私に出来るのは。
「政宗さんが思うなら、そうなんじゃないですか?」
「Oh……言うねぇ」
普段の平穏の糸口を提示する事だけ。
うららかな午後の時間に別れを告げ、眼前の敵に挑むべく眠りかけていた脳を奮い立たせる。政宗さんに口で勝てるとは思っていない。良くて引き分け、普段は言い負かされるのがオチだ。いつもの自分で向かえば敗北する事は目に見えている。
だが、こういう状況下で負ける訳にいかない。なんとかして相打ちまでもっていかなければ。
「どうした?」
掛かって来いよ、と言わんばかりに弧を描く口元。
期待を裏切る訳にはいかないでしょう?
「いえ、別に? タチの悪い夢を見てるんじゃないか、って考えてただけですから」
「こりゃ失礼。はdreamerだったのか」
反論したら負けだ。政宗さんの策にはまってはいけない、と己に言い聞かせ、思っているのとは違う言葉を口に乗せる。
「何を、今更」
私の回答に驚きの色を見せた政宗さんを見て、相打ちへの一歩が成功した事を理解した。
「私が夢を見ているなんて、分かりきった事じゃないですか」
「What……?」
政宗さんを後目に庭園の方へと向き直れば、そこに在るのは暖かな日差し。なのに、それすらも蜃気楼の様に感じてしまうのは……。
「此処にある庭も、風も、太陽も。全て本物ですけど」
当たり前の事を当たり前と言える幸福。
「此処に居る私が本物である、と……定義出来ますか?」
「…………?」
躊躇いがちに呼ばれた名が心地良い。
だから、言うのだ。
「私が私である事を否定したら、今ここに在る私、という人間は何になるんでしょうね?」
居てはならない、在ってはならない存在の私を、本物だと……誰が言い切れるのだろうか。私という存在が幻でない、と。誰が……定義出来るのだろうか? 本物の私は、今まで通りの世界に居て。これは覚めにくい夢の一つだと、どうして言えない?
「考えても下さいよ。こんなイレギュラーな存在、在って良いはず無いと思いません?」
規則的なリズムを刻む鼓動も、感じる体温も。良くできた偽物だと。
「Han……馬鹿馬鹿しい」
Cheapな感情だ、と一蹴する政宗さんの眼に、怒りのような色を見つけた。
「ンな事考えてる暇があんなら……」
俺の枕にでもなっとけ。
告げられた言葉に唖然としている間に、強い力で腕を引かれ縁側に座らされた。腰を打ち付けるような形になって痛い、と文句を言おうと口を開けば、腿に掛かった重みに言葉を失う。
「ちょ、……何してるんですか!?」
「Shut up……煩い」
俗に言う膝枕という状況に焦りが生まれる。こんな所他の人に見られたら……考えるだけでも恐ろしい。
「俺の役に立てて幸せモンだなぁ? チャンよぉ」
ワザと出された猫なで声に、一気に鳥肌が立った。
視界の端で揺れる栗色が、脳内に警告を鳴らす。早くこの状況を打開しなくては。考えれば考える程頭の中は真っ白になっていき、足に掛かる重みだけが鮮明な色を持つ。
ああ、もう……だから、この人は……苦手なのだ。
「重いんですけど」
「黙れ、と言った。二度は無いぜ?」
人の足を占領して置いて、言うべき事はそれか?
力任せに頭を叩いてやろうかと思ったけど、後が怖いので止めておいた。いっそ誰か来て冷やかしでもしてくれたら、逃げる口実が出来るのに。
「」
咽まで出かかった溜息は、政宗さんの声によって胸の内に戻る。
「」
「……」
「」
「…………なんですか」
返事をすれば政宗さんが笑う気配が伝わってくる。
「何が可笑しいんですか」
続けて問えば今度はあからさまに肩が揺れた。
必死で笑いを堪えているといった風な政宗さんに怒りが湧いてくる。返事をした事の何が可笑しいと言うのだ。
「気付かないのか?」
原因は簡単な事だと、敵は言う。そんな簡単な事に気づけない程、お前の脳は錆び付いているのか、と。
「返事しただけじゃないですか」
「That's right」
分かってるじゃないか、と後頭部をこちらに向けたまま、政宗さんは言った。
「と呼ばれ、お前は返事をした。ならば、お前という存在は、という名を持ち存在する人物である」
演説のような言い回しに、息を呑む。
ただ名前を呼ぶだけで私の持つ不安を……打ち砕いてしまった。
励ますつもりが、励まされていたなんて。笑い話以外の何になれよう?
「……馬鹿馬鹿しくなってきた……」
「今更、だろ」
同じ様な台詞で返され、苦笑が漏れる。
「……ふあ……ぁ……眠…………」
自分以外の体温と、穏やかに包み込む日差しが睡魔を誘う。
現実と眠りの狭間を漂えば、世界に溶けていきそうな感覚さえ覚える。このまま消えてしまえば、私は夢となるのだろうか?
ああ……でも。
夢を見続けるのも……悪くはない。
「…………」
虚ろになる意識の片隅で、政宗さんの声を聞いたような気がしたけれど、思考を停止した状態では理解出来なかった。
このぬるま湯のような長い長い夢の終わりに待つのは。
現実か、虚像か。
答えは、未だ無い。
END
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