雨の中をひたすら走り続ける。先の見えない空間は嫌いではない。がむしゃらに走り続ければ、後ろを振り返る暇なんてないだろうから。ぜいぜい、と肺が酸素を求めて音を鳴らす。苦しくても、辛くても。今はただ走り続けるしかない。
 私を支配するこの不安も、全て雨と共に流れてしまえばいいのに。
 見上げた空は重く、雨は未だ止みそうになかった。

 

 Start

 

「し、しょうっ!」
 勢い良く開かれた扉は軋んだ音を立て、壁に当たった。
 薄暗い部屋に踏み入れれば、窓際に寄りかかる彼の人を視界に捉えた。部屋が汚れるのも気にせず歩を進めれば、いつもと変わらぬ表情のその人。
「お怪我をなさったと聞きましたが!」
 歩みを止めれば、服からしたたり落ちる雨水が足下に小さな水たまりを作り始める。
「……指先を少し切っただけだろうが」
 ゆっくりと広がっていく水たまりに視線を落としながら、呆れたような表情で師匠は呟いた。
「で、でも隼人さんが」
「からかわれたんだよ」
 ほれ、と目の前に差し出された指には、確かにうっすらと赤い線が付いている。すでに血の乾いた指を見て、ようやく不安が流れ出していった。
 安堵の表情で良かった。と呟く私に贈られるのは、舌打ちの音。何か師匠の気に障る事でもしただろうか? 小首を傾げていたら、バスタオルを投げられた。完全なる不意打ちのせいで、顔面キャッチを披露。……恥ずかしい。
 髪から滴り落ちる雨水を拭き取りながら、ふと師匠の方に視線を移動させれば、窓枠に肘を付いて何かを考えているよう。知識も、能力も、何もかも及ばない私では、師匠の考えてる事なんて分からないけれど。今日は……いつもとは違う気がする。何が違うのかと問われれば答えられないけれど、強いていえば纏う雰囲気が違うのかもしれない。
 無言が支配する空間の中で、床に落ちる水音だけがやけに大きく響いた。
 どれくらいの時間そうしていたのだろうか。不意に投げかけられた視線に、思わず右手が動いた。武器を持っている訳ではない。標的にされている訳でもない。
 だけど、向けられた殺気は紛れもなく戦場で感じるそれ。
 肌を焼くような緊張感の中、師匠はゆっくりと動作を開始する。こつこつ、とヒールの音を響かせながら歩み寄ってくる師匠。
 視線が、はずせない。
 ゆっくりと近づいてくる師匠を見つめながら、心の何処かでこのまま消されてしまうのではないか、と何故かそんな事を考えた。
「ちゃんと拭け、風邪を引くぞ」
 頭の上に与えられる温もり。
「へ、あ、……はい」
 予想外の出来事に声が裏返ってしまうのも仕方ないだろう。

「はい?」
「………………何処に、行っていた」
 妙な間が気になったが、師匠の言葉を無視する事なんて出来るはずもなく。依頼されたターゲットを始末していたと簡潔に答えた。
「オレは平気だからな」
 まるで照れ隠しのように私の頭を力一杯拭いてくれる師匠。それが何かとても嬉しくて、にまにましていたらいつの間にか師匠の手に銃が握られていた。危ない危ない。
「そういえば……師匠と出会った日も、雨でしたね」
 軽く目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる光景。
 冷たい大地と、むせるような硝煙の香り。それらを覆い隠すかのように降り出した雨。打ち付けるように降る雨の中立ちつくす私の目の前に現れたその人は、ただ一つだけ言葉を紡ぐ。
 死んでみるか。と。
 今思い返せば師匠は私の事を殺す気だったのだと思う。最強の殺し屋と謳われれている師匠が、仕事の現場を一般人に見られて良い気分でいるハズがない。
「忘れる訳ねーよ」
「そうですか?」
「ああ」
「何処に笑う女がいる」
「……変、ですかね?」
「当たり前だ」
「ちょ、痛っ! 痛いですってば、師匠!」
 途端に強くなった力に異論を唱えれば「痛くしてるんだ」との答え。
 どこまでも生粋なサド気質なんだから。
「……少し黙ってみるか?」
「いえ、間に合ってます」
 ニヒルな笑みを湛えながら銃をちらつかせる師匠に、こちらも引きつった笑みで対応する。本当この人にはかなわない。
「師匠……あの」
「なんだ?」
「その……私……」
、黙れ 」
 口篭もる私の言葉を、優しい温もりが呑み込んでいく。
 ああ、もう本当憎らしい程に人の心を読むのだから。
「んっ……リ、ボ……」
「覚悟しろリボーン!」
 突如聞こえてきた声に、師匠は舌打ちを一つ。
「わ、私行ってきますね!」
 未だ背後にいるであろうランボの方を振り向けば、ひどく驚いた顔で走り出した。

「なんでしょう?」
 廊下を走っていくランボを目で追いながら、掛けられた言葉に対応すれば「なんでもない」と師匠らしくない返事。
 きっと今振り返れば、私の顔は真っ赤だろうから。
 照れ隠しの意味も含めて、背中越しに行ってきます、と再度言葉を投げた。

 

 行ってきます、と振り向きもせずには走っていった。
「運命ってやつか」
 らしくない、と自分の呟きを嘲笑いながら、リボーンは窓辺に寄りかかる。これから起こるであろう出来事をは知らない。
 自分にとっての過去。
 彼女にとっての未来。
「楽しんでこい」
 他人が聞いたら卒倒しそうな程甘い声で囁かれたその言葉は、闇夜に溶けた。

 END

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