「少しだけ後悔していることがある」
月の綺麗な晩、縁側に腰を下ろした切嗣は何気なく呟いた。
「どうしたの? 急に」
彼の息子である士郎は既に就寝しており、隣に座るのは月と同じような色味を持つ女だけ。
「君に士郎のことを頼んでしまったことを、だよ」
苦笑混じりに呟いて、切嗣はそっと目を伏せる。
「本当は、知っていたんだ」
「何を?」
女がアーチャーのサーヴァントと共にいる所を、切嗣は何度も目撃していた。女の素性など知ったことではないが、敵と認定した存在と共にいる者を生かしておく道理もない。女が廃館に居を構えているのも切嗣は知っていた。のんびりと日々を過ごす女は驚くほど無防備で、冷たい引き金を引けばすぐにでも命を奪ってしまえただろう。だが、切嗣が女を狙撃することはなかった。それは切嗣の本能が、引き金を引いても女の命を奪うことは出来ないと識っていたからだ。
「なぁ、。君は後悔してないかい?」
視線は月に固定したまま、切嗣は言葉を紡ぐ。
「僕なんかのお願いを聞いてしまったことを、さ」
「本当、どうしたの? 今夜はいつにもましておかしな事を言うわねぇ……。満月だからセンチメンタルな気分にでもなった?」
呆れた声でこちらを見ているに向かい、「そうかもしれない」と切嗣は曖昧な笑みを返す。
目を瞑ると思い出す光景がある。
紅で染まった世界に白い影が現れる。誰かを捜しているのか検分するよう周囲を見回しながら、幽鬼のような女は軽い足取りで厄災の中を歩いていた。死が蔓延する世界に在っても女が足を止めることはなく、逆に炎の方が女を避けるという奇蹟のような現実を虚ろな目で見つめながら、アレは危険な存在だと切嗣は認識を新たにした。敵に回したら危険だから……こちら側に取り込むしかないと。一瞬の内に策謀を巡らし、女がこちらに気付いたのを機に音で縛る。
「君は」
「初めまして、ですね」
「ああ、初めまして」
場違いな挨拶に壊れかけていた意識が僅かな正気を取り戻す。
「君の名を聞いてもいいかな、お嬢さん」
切嗣の言葉に僅かに目を見開いて、白い女は「私はといいます」とどこか嬉しそうに自分の名前を告げた。
「突然で変な奴かと思われるかもしれないけれど……君、護るのは得意だろう?」
腕に抱いた子供を抱え直し、切嗣は言葉を重ねる。
「ならこの子を護ってやってくれないか」
「いいですよ? 別に。特に用事もないし」
見知らぬ男からの願い事をは笑うことなく、ただ純粋な驚きだけをもって受け止めた。一瞬が永遠に感じるような時間の中でが紡いだ音はあまりに軽く、逆に夢を見ているような錯覚を切嗣に与える。だが、が切嗣の願いを受理した直後、周囲の空気が変わるのを切嗣は肌で感じた。それは自分がアヴァロンの加護を受けていた時に感じた感覚に似通っており、護れたという認識がゆっくりと切嗣の精神を浸食する。
「とりあえず、その子をお風呂に入れないとですね」
「……そうだな」
子供の顔についた煤を拭ってやる指先は白く細い。
きっとが探していたのは、あの金のサーヴァントだろう。分かってはいるけど許容は出来ず、一つの不安要素を潰せた事に切嗣は満足していた。
「ねぇ、切嗣」
隣から向けられた音に切嗣は過去を振り返る事を止め、声の主であるへと暗い視線を向ける。
「過程や結果がどうであれ、貴方が自分で選択したことを悔やむ必要はないんじゃないの?」
らしくないとは切嗣を笑い、座っていた上体を倒し廊下に寝転んだ。
「私、言ったわよね。暇だから士郎の面倒を見るのは構わない、って。本当はね、あの時嬉しかったの。私でも、誰かの傍に居ていいんだって言われた気がして……実はちょっとだけ泣きたい気分になってたの」
ここだけの秘密だけど。そう言葉を続け、は悪戯めいた光を瞳に映す。
「引き際は弁えてるから……切嗣は気にしないで」
「そうか」
「ええ、そうよ。だから――」
今すべきは、士郎の為に少しでも長く生きることだとは切嗣に告げた。静かな月夜に響く柔らかな声は神託のように切嗣の精神を絡め取る。ああ、成る程。この女は言霊を使うのだと、切嗣はその時初めて理解した。
「君は厳しいな」
「贖罪がお好みでしょ?」
忍び笑いを漏らしながらは切嗣を見上げる。日々呪怨に苛まされながら、罪を償うよう衛宮士郎という人間を育成する衛宮切嗣に静かに告げる。
「悔やんで、悔やみ尽くした衛宮切嗣という人間を誰かが許したとしても。私だけは、貴方を許してあげない」
だから、存分に嘆き悔やむがいいと、女神のような女は微笑む。
自分だけは、いつまでも衛宮切嗣という人間を許さず、覚えているからと。それは誓約。それは契約。終わりのない女が終わりゆく男に残した、一つの親愛の形。
「はは……君は、酷い人間だな」
「あら、知らなかったの? 私は善人じゃないわよ」
ゆっくりと口元に弧を描き、は片手を月に向かって伸ばす。
「善悪なんて抱え込むだけ面倒だもの」
虚空をなぞるよう白い指先を動かし切嗣の視線の先で止めれば、何もない空間から一輪の花が出現する。切嗣が差し出された花を手にすれば、今度は彼の上に次から次へと同じ色が降り注ぐ。
「おいおい、なんだこれは」
後片付けが大変だと苦笑を浮かべる切嗣と連動するよう、も笑う。
静かな月夜を彩る二人分の笑い声。二人の周囲を埋め尽くすよう降り注ぐ白さに、切嗣は冬の城の幻影を見た気がした。
衛宮切嗣という人間が静かに息を引き取ってから五年。
私は眼前の状況に眩暈に似た感情を抱いた。なにも、こんなところまで切嗣を目指さなくてもいいのに。士郎を絡め取る死と生。その手に浮かぶのは令呪と呼ばれる刻印だ。目の前に座るセイバーと呼ばれた女の人にはどこかで会ったような気もするが……思い出せない。相手方も同じ感覚を抱いているのか、じっと私の方を見つめた後諦めたような色を瞳に宿した。
「士郎、お姉ちゃんは今日までお前に黙っていたことがあります」
マスターとサーヴァント。いつかの再現が果たされるというならば、私という存在を呼び寄せた子供に荷担する権利を貰えるだろうか。護ってくれと頼まれた、切嗣との約束を遂行してもいいだろうか。
「?」
「面倒事は嫌いなんだけど、馬鹿にされるのはもっと嫌いなの」
最後を見届けられなかった者として、小さな我が儘を。
ゆるりと意識を拡散させ士郎の因果を辿り、こちらに移す手順を整える。ゆっくりと絡め取り、書き換え、因果律を改竄する。そうして、死の原因を捕縛したハズなのに……私の心を満たすのは、春風のような温かさだけ。これはどういうことかと首を傾げ、膝に添えていた左手を机の上に出す。
「あれ、これって」
手の甲に刻まれたのは凛ちゃんと同じ文様。たしか生前の切嗣から聞いた話によると、令呪というものはマスターにより異なる文様を刻むのものではなかったか。理解出来ないと口を噤む私の周りで、女性陣と士郎が言い争いを始める。
「んー」
「何やったんだよ! しかも茶の間でいきなりなんて、訳わかんねーよ!」
「衛宮君、アンタの姉さんどうなってるのよ! 魔術の気配も召還の呪文もなくて、令呪が出現するハズ……。そもそもアンタが最後の一人だったんだから」
「んなこと言われても……」
「シロウ、が召還をしたというならば、サーヴァントはどこにいるのです」
「そ、そうだ。サーヴァントは……」
士郎の疑問に答えるよう、玄関戸が蹴破られる音が響く。
徐々に近づいてくる音に、形容し難い不思議な感情が胸中を占めた。
「来たみたい」
「はぁ!?」
荒々しい音を響かせ、姿を現したのは――。
「ふん、雑種風情が……と、セイバーではないか。ようやく我の物になる気になったか」
「な、なぜお前がここに……!」
声を荒げるセイバーさんとは裏腹に、私は周囲の時間が止まったような錯覚に陥った。不遜な態度で仁王立ちする存在は、あの頃となんら変わらない。他人を見下した態度で鼻を鳴らす仕草も、太陽のように煌めく金色も、悦の色に彩られた宝石のような瞳も、なにもかも。
じっと見つめるこちらの視線に気付いたのか、ギルガメッシュは一瞬だけ驚いたような色を瞳に乗せ不敵な笑みを口に引く。
一度目は偶然。
二度目は必然。
そして――。
「そっかー、ギル様アーチャーだったっけ」
「――ではないか」
三度目があれば、それはもう運命なのだ。
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