普段ならば家で食べるご飯が一番だと思うのだが、作り手のいないこの時間軸においては切ない夢と成り果てる。
軽く炙った海苔の片面に醤油を付け、炊きたての白いご飯をくるんで食す。シンプルながらも日本の素晴らしさを堪能できる食事を口に出来ないのは、とてつもない不幸だ。
ホテルの食事は美味しいが、個人的には非の打ち所がない完璧な料理よりも、家庭の味が滲み出るような素朴な和食が食べたいと思ってしまう。
「せめて中華……中華が食べたい」
凛ちゃんの作ってくれた野菜炒めを思い出し現在の欲望を吐き出すと、余計に食べたい気分が加速して自滅モードに陥ってしまった。おそらくホテルなのだから中華の取扱もあるだろうが、生粋のお貴族様達が口にするのは最高級の食材を使用した洋食であり、彼等と囲む食卓に中華や和食の付けいる隙は見あたらない。
「我慢出来ないわ」
洋食とは違うソースと香辛料。思い出せば出すほど空腹を訴えてくる腹を服の上から押さえ、少しばかりの好き勝手なら許されるだろうと書き置きを残しホテルの最上階を後にする。
今もあるかどうか分からないが、目指すは唯一場所を知る中華料理屋。
「いざ征かん、泰山!」
店名を口にすると、脳裏にげんなりとした青い英霊の姿が浮かんで消えた。
幸運なことに、私が知る場所に目的の中華屋はあった。
お昼時ということもあって店内は混み合っており、贔屓にしていた店が繁盛していたという事実が小さな喜びを運んでくる。
「いらっしゃいませ」
「一名なのですが」
「少々お待ち下さい」
店員さんが席を確認する後ろ姿を見送りながら、何気なく店内を見回すと――。
いた。
混み合う店内において、周囲の雰囲気を打ち砕くような自己を貫いている存在が。
「相席でもよろしいですか?」
「あっ、はい」
おそらく彼であろう後ろ姿を眺めていたせいで、店員さんが近寄っているのに気付かなかった。
「申し訳ございませんが、相席でお願い致します」
案内された先には遠くから見ていた背中があり、黒に身を包んだ存在が機械のような動きで頷くのを確認してから空いている対面に着席する。
「…………」
「…………」
額にうっすらと汗を滲ませ、一心不乱に麻婆を食べ進める光景は異様だ。
何気なく横の卓へ視線を移せば、同じ商品名だと思われる麻婆豆腐が色鮮やかに卓上を飾っている。やはり本来の麻婆豆腐というのはああいう色なのだ。間違っても対面の男が食べているような、変にどす黒い食べ物ではないのだ。
激辛を通り越して味覚麻痺になりそうな辛さすらも、求道者たる彼にとっては修行の一環なんだろうか。
「美味しいですか?」
本心からの問いを相手に向ければ、丼と口元を一定の間隔で往復していたレンゲが止まる。
「……気に入らぬならば口にしない」
「そうですよね」
馬鹿なことを聞いている自覚はあったが、彼は彼なりに激辛麻婆豆腐を味わっているようだ。
「注文しないのか」
「え? あ……ちょっと悩み中なので」
久しぶりの中華ということもあって目移りが激しい。
「……?」
「食べるがいい」
「ありがとう……ございます」
ランチサービスなのか、以前目にしたものよりも小振りな器に盛られた杏仁豆腐が私の方へと押しやられる。
辛党の人は甘い物を好まないというが、眼前の神父も例に漏れずなのだろうか? 真相は定かではないが甘い物好きとしては棚からぼた餅だと、貰った杏仁豆腐を口に運びながらメニューを選ぶ作業に戻る。
こちらへの興味は失せたのか、再び麻婆豆腐を消化しだした黒衣の神父をチラ見し、自身の知る姿との相違点を脳内で上げてみた。
まず見た目だが……髪が短くこざっぱりしており、座っているから定かではないが、僅かに身長も小さいような気がする。なにより、以前みかけた時よりも真人間のような雰囲気を纏っているのが面白い。
ギルガメッシュは彼という存在を面白いと評していたが、いざ自分の目で若い頃の本人と比較してみると、十年後の彼はたんに吹っ切れてしまっただけなのではないかという印象を受けた。
そういう点では、今目の前にいる彼の方が人間味がある。
紙面を目でなぞるだけで一向に決まらないメニューに小さなため息を吐き出しながら、そういえば。と脳裏に沸いたもう一つの疑問を消化してみることにした。
以前誰かから聞いた話では、彼は十年前の厄災で命を落としているのではなかっただろうか? 聖杯戦争と呼ばれる期間は短いし、成長期を外れた大人の男がたかが数日で一気に身長が伸びるとは考えがたい。
となると、厄災の元凶であった泥と呼ばれる物質は死して尚体に影響を与えるものなのだろうか?
「分からないわ」
うっかり出てしまった言葉を慌てて隠そうとしても、一度音となって発言したものは無かったことにならない。
「……悩みか」
「え、あー……」
空になった器に陶器が触れる音がやけに響くと思いつつ、思考と現実をすげ替えるにはどうするべきかと逡巡する。
「あの……オススメって、ありますか?」
食事は終えたと、手元にあったナプキンを律儀に畳む黒衣の神父に問えば「麻婆豆腐だ」と律儀に答えが返ってくるあたり、歪みきっていても彼は他人の話に耳を傾ける神職者なのだろう。
「では、私は失礼する」
「あ、はい。お疲れ様です」
なんとなく紡いでしまった言葉に内心首を捻りながら、私はオーダーを取りに来た店員さんにレバニラ炒めを注文した。 |