昔、一つの出会いがあった。
柔らかな世界に身を浸す女は、生命に愛された者。本人が気付いているのかどうかは定かでないが、その魂は浸食され雁字搦めに束縛されていた。
「女」
己の真横で止まった男を見上げ、女は「誰?」と言葉を紡ぐ。
「貴様、名はなんという」
「名前なんて、必要ないよ」
この村では個々を特定する必要性はない。なぜならば……。
「識っているか」
存在する家族も、村の人達も何もかもが。
「全ては幻なのだと」
卑下した笑みを口に乗せる男に女は再度首を傾げ、言っている意味が分からないと目で語る。
「フン」
幻に支配された幻想空間で、女だけが本物だった。作り出しているのは女の心象か、それとも女を絡め取っている強大な力か。どちらにせよ、面白い。
総てを手に入れた男が、未だ手に入れていないもの。神秘の原石である存在が、どのような時間を紡ぐのか興味が沸いた。
「」
聞き覚えのない音に女は首を傾げる。
「我が直々に名を与えてやるのだ。誉れ敬うがいい」
「が、私?」
「ああ、お前だ」
初めて与えられた外部の要因に、空間が軋む音がする。余計な事をするなと世界が喚く。
「貴様等には過ぎた代物よ」
男が言葉を発する度に大気が重くのし掛かっていく。
「ねぇ」
いつの間にか立った女は男に視線を合わせ、もう一度「あなたは誰」と音を紡いだ。
「我が名を欲するか」
よかろう、と鼻で嗤い、男はギルガメッシュと己の名を告げた。
「、貴様の想いは未だ軽く我が愛でるには役不足」
「え?」
手を添え幼さの残る頤を持ち上げ、自らの顔を近づける。
「貴様の業を持ってして、我の視界を埋め尽くしてみせよ」
「な、何を言っているの?」
「フッ所詮は作り物の存在か。知恵が足りぬとみえる」
「――ッ! なによ! 次あったら覚えてなさいよ! いやっていうほど、いっぱいっぱい増やして、必ず見返してやるんだから!」
の言葉に、ギルガメッシュは赤い瞳を細めて。
「ならばよ。貴様が見事我の視野を奪った際には――我が隣に立つことを赦そう」
「そんなこと言われても嬉しくないんだから! もう早く帰ってよ! お水やりの時間なの!」
自分の頬が赤く染まっていることに、は気付いているのだろうか。
ギルガメッシュを知るものが見たら卒倒するくらい、ギルガメッシュがを見つめる瞳は柔らかく甘い。だが、がギルガメッシュの普段を知るはずもなく、多大な苛立ちのみを抱えて赤い瞳を睨み付ける。
「楽しみにしておるぞ、」
最後にの名を呼び、ギルガメッシュは去った。
一度きりの邂逅に二度目があるハズはなく、約束が果たされる可能性はゼロに近い。心のどこかでそのことを理解してはいたけれど、言葉として発した事を裏切る行為はしたくなかったから。
虚ろな魂を研ぎ澄まし、叶えられない願いを放棄することなく抱き続けた。
重苦しい鎖を打ち砕く軌跡が花火のようだとぼんやり思う。
限界まで引き絞られた弓は、皮膚を裂き血を流す要因となった。手を伝う血が赤い雫となって地面に落ちると、そこからまた新たな花が咲く。終わることのない幻想は、たしかなものとして世界を支配していた。
「ッ!」
僅かな防御の合間を縫って鎖が足に絡みつく。
また、左か。乾いた思考の中で苦笑を漏らして、衝撃でずれた軌道を修正する。僅か、上に……3度。
目に映るのは暗い泥を生み出す聖杯。それに騎士王が剣を構える姿。勝利を勝ち取る為の剣は淡い燐光を放ち暗闇を照らす。その光は夏に見た蛍に似ていると思った。
今年は皆で花火が見たい。海に行ってスイカ割りをして、かき氷を食べて。夜は打ち上げ花火を持ち出して、士郎に怒られるのだ。
――それが、アンタの願いか?
聞き覚えのある声が脳裏で木霊する。
願いかと聞かれたら、違うと応えよう。だって、私が願うのはいつだって一つだけ。
「問答無用の、ハッピーエンドを」
視える視界の中で、セイバーさんが剣を振り上げる。黄金の軌跡が暗闇を覆うのを確認し、私は手を離した。
一条の光が黄金に混ざり共に突き刺さる。
刹那、「アンタサイコーだわ」と男の笑い声が聞こえた気がした。
轟音と共に地面が揺らぐ。
「うわっ」
倒れそうになる体を支えるため側に居たギルガメッシュに抱きつくが、全身を鎧で覆ったギルガメッシュは冷たい感触しか与えてこず、少しだけ寂しい気持ちになる。
長いこと続いていた地面の揺れがおさまる頃には、朝焼けが空を彩り始めていた。紺碧から金へと染まり始めるグラデーションはいつ見ても美しい。街を総て覆い尽くすかのように広がっていた草花は、出番を終えたと言いたげに細かい花弁を空に溶かし始める。キラキラと太陽の光を浴び消えゆく姿も、蛍に似ていると思った。
「反則もここまでくるといっそ気持ちいいわね」
どこか疲れた表情で魔女が言えば。
「カーッ、久々に思いっきり体動かしたぜー!」
すっきりしたと槍兵が笑った。
そして――。
「ギル様?」
金の鎧を陽光に煌めかせ、ギルガメッシュが目を細める。もう鎖の音は聞こえてこない。その事実に安堵の息をつきながら己のサーヴァントであった存在を見上げた。何もかもが煌めく姿は心音を上げるのに十分すぎるほどの効果を持っていて、気付かれないようにとくっつけていた体を離す。
ギルガメッシュは何も語らない。
ただ静かに目を閉じて、「」と私の名を呼ぶ。
「なに? ギル様」
未だ瞳を閉じたままの英雄王に問い返せば。
「よい、献上を許す」
それは彼の口癖。僅かに口端を持ち上げ、緩やかに開かれる瞳。慢心王でも、英雄王でもなく、ギルガメッシュという一人の存在が私を見据える。
「あ? 何言ってんだお前?」
ランサーさんの言葉に、遠い日の自分が重なる。
まさか、そんなこと、あるわけない。
狼狽えた気配を見せた私を一笑に付して、武装を解いたギルガメッシュは私を胸に抱き込んだ。鎧とは違う温もり、頬にかかる金糸。
「見事だ」
耳元で紡がれた音に、涙が零れた。
「お、おい!?」
「あらあら、女の子を泣かせるなんて、とんだサーヴァントもいたものね」
溢れた雫によって花が枯れる事はない。
「ギ、ル……」
行き場のなく揺れる私の手をとり、己の頬に押し当てる。見た目通り滑らかなギルガメッシュの肌は、少しだけ温かい。
「誇るがいいぞ、。お前は我の隣に相応しい」
ニヤリと人の悪い笑みを浮かべるのは唯我独尊な金ぴか王らしいけど、向けられる瞳は蕩けるほど柔らかい。ああ、そうだ。私はこの眼を知っている。忘れる事の出来ない、忘れたくない記憶の中で、一際鮮やかな色合いをもって存在し続ける……私の理由。
「ギル……ガ、メッシュ……」
「そうだ」
敬称はいらない。添えた私の掌に口付けを落としながら、満足そうにギルガメッシュが微笑む。
「わ、た……し」
一度零れ始めた涙は止まることなく流れ続ける。乾いた大地を補修するように、後から後から溢れ出して止まらない。ひび割れそうだった心が満たされていく。
「――まってた」
だから、言えた。
いつか再び逢える奇蹟が起こったら、まっさきに告げようと胸の奥底にしまっていた言葉を。叶う事のない願いの代償は高くついたけれど、それでも……こんな結末を迎える事が出来たならば悔いはない。
そこまで考えて、ふと思う。
もしかしたらこれは――。
閉じていた瞼を押し上げ、舞い上がる花弁を目に映す。
聖杯は持ち主の願いを叶える。汚染元である呪われた存在は、楽しそうに笑っていた。
アンタとオレは同じカテゴリだ。生者と死者、その違いはあれども呪われているという点において相違はないと、泥の中で男は言っていた。だから男は女に憧れを抱いているのだとも。
『オレに出来なかったことをやってのけたアンタにご褒美を』
パチンと弾けて消える花弁は拍手の音にもにて、喝采で埋め尽くされた世界に微笑を漏らし「馬鹿ね」と告げるべき相手のいない単語を吐き出した。
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