「ご機嫌如何? ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ中将」
 ふらりと湧き出た極彩に、どうして気付かなかったのかという疑問は意味を成さないと、ラインハルトは目の前の存在を「そういうもの」として切り捨てた。
「卿はよほど暇だと見える」
「あら、気付いて下さったの? 嬉しい」
 わざとらしい単語の羅列にもかかわらず気分を害さないのは、眼前にいる存在がひどく希薄だからだ。
 周囲の視線を惹くような色彩を纏っているのに、薄笑いを張り付けた男と同等――もしくはそれ以上の透明感を有した女は、「在る」という前提を持って相対しなければ気付く事すらままならないだろう。
 その証拠に、厳重に警備されている牢獄への侵入を許可している。
「何用だ」
 影のような男といい、眼前の派手な女といい、このような存在とまともに取り合うのは時間の無駄だ。
 マホガニーのデスクに積み上げられた仕事を一瞥し、ラインハルトは望まぬ訪問者を排除すべく言葉を重ねた。
「卿と違い私は暇ではない」
「んー……惜しい」
 何が、という問いは呑み込んだ。
 短い付き合いの中でも学べる事はあり、数少ない経験がラインハルトに無視を貫けと唯一の選択肢を差し出してくる。
「貴方はもっと余裕があってゴージャスで……そう、なんていえばいいのかしらね。周囲が思わず膝を付きたくなるようなオーラを漂わせているのがお似合いだと思うのだけれど、あとどれくらい待てば良かったんだっけ?」
「用が無いのならばお引き取り願おう」
 一応、これでも自らを尋ねてきた客人だと言葉を返せば、何かを思い出すように首を傾げていた女はわざとらしく手を叩き、一歩分だけラインハルトとの距離を詰めた。
「用件ならあるの」
「ならば早くしろ」
「そうツンケンなさらないでよ。ああ、髪が伸びれば気持ちも長くなるのかな」
 埒があかない。
 前々から会話にならないと理解はしていたが、今日は特に邪魔だと感じる。
 似た者同士という言葉があるように、眼前の存在も早く影のような存在の元へ行かないものかと小さな息と共に気鬱さを吐き出し、ラインハルトはあの男と同じ色を有する瞳を正面から見据えた。
「中将殿は本日が何の日かご存じ?」
「興味がない」
「3月14日は特別な日なんですよ」
 否定の言葉を無視し、女は説明を続ける。
「バレンタインのお返しをする日で――」
「バレンタイン?」
 聞き覚えのない単語に声を上げてしまったのは失敗だったと後悔したが、女はラインハルトの声を受け口を閉ざし考える素振りを見せた。
「日頃のお礼とか好意を伝える為に設けられた日なんですが」
「……」
 無言のラインハルトの表情を伺いながら、女はゆっくりと首を傾げる。
「興味がないだけ? それとも習慣にならなかった? あらやだ、気持ち悪い。記憶が曖昧だわ」
 女が呼吸をする度に、白磁に咲いた華が笑う。
「アレの耄碌に浸食でもされたかしら」
 女の指すアレとは、占術師を名乗る影のような男の事だろう。
 どうして自分の周りには厄介事が近づいてくるのかとラインハルトは痛む頭に眉間の皺を深くし、未だ首を傾けている女を追い出すべく策を練ろうとしたが、そもそもこの女は気付けば勝手に居なくなっているのだと過去のやりとりを思い出し、放置することにした。
「東洋では……いまは未だ流行ってなかったんでしたっけ?」
「知らぬ」
 時代が早かったのか等と、理解不能な狂言を口にする輩に付き合う暇はない。
「まぁいいわ。いつか未来の貴方に」
 そういって女は何処からか小さな箱を取り出し、ラインハルトから視線を逸らさずに互いを隔てていた机の上に小箱を置いた。
 自らを主張する色合いを有する小箱は、なるほど、女の分身とも言える。
「菓子は好かん」
「あら、お菓子だって分かって下さるなんて。中将閣下は物事を見通せる眼をお持ちなのね」
 コロコロと笑う女の声が耳朶を滑り、ラインハルトはようやく面倒事が去るのだと確信を抱いた。
「私からの好意ですので、丁寧に扱って下さいな」
「……」
 早く去れと視線で訴えると、女はラインハルトが嫌う双眸を細め、有意義な一時だったと言わんばかりの軽い足取りで、外へと続く扉へ近づいていく。
 おそらく、一歩外界へ足を踏み出せば女の事をラインハルトは忘れるだろう。
 アレはそういう風に出来ているし、忘れたところで特別な繋がりを持たない、持ちたいとも思えない自分達の間には何の問題も発生しない。
 むしろ顔を合わせるたびに、存在したという事を認識してしまう方が問題だと、ラインハルトは女の背を彩っている深紅の上着を見つめた。
 時代というよりも、現在という時間にそぐわない異質な存在。
 質量を感じさせない個は、ただの物質にも劣る。
「また、近いうちに」
 振り向かず落とされた言葉は音となり宙に溶け、たしかに在ったはずのソレが消失するのを確認し、ラインハルトはようやく無意味な日常が戻ってくるのを実感していた。
「意味がない」
 果たされない口約束に意義を求めるほど暇ではないのだから、覚えている必要性もないし、甘い物は好かない。
 だから――。
 書類が占領している机上に存在する異質に対し、ラインハルトは汚物を見るような視線を向け、一呼吸の内に女の残した小箱を投げ捨てた。

BACK