「メルクリウス、貴方は神様ってどんな存在だと思う? 私はね、意外と寂しがりやなんじゃないかと思うのよ」
既知感に満ちた世界に投じられた色に両目を眇め、彼女が紡ぐ音を聞く。
謳うように紡がれる音は心地良い音程となり体内を通り抜け、さながら癒しの音色を聞いているようだとすら感じた。そう思える事がすでに未知の領域なのだが、見知った存在を前にしたメルクリウスに気付く様子はなく、淡々と一定の口調でが奏でる音を聞く。
「貴方がよくハイドリヒ卿の事をピラミッドに例えるけれど、規模は違えど神と呼ばれる存在も同じ位置に縛られているということにならない?」
「、君の本意はなんだね。問うからには相応の考えがあってのことであろう?」
「本意とか、そういう勘ぐりは無しにしてくださる? たんに私は自分の考えを暇つぶしのように存在する貴方に話しているだけにすぎないわ」
無粋だと口を尖らせ、いつものように味の濃すぎる紅茶を口にする。苦虫を噛みつぶしたような表情は見ていて楽しいと思えるが、これもまた既知の一角であるにも拘わらず、忌むべき既知を懐かしいとすら形容出来るこの感情は、一体なんなのだろうかとメルクリウスは逡巡する。
「大体、貴方はいつも考えすぎなのよ」
左手で銀のスプーンを弄びながら言うに、メルクリウスは無言の催促を促した。
「大雑把かと思えば緻密な計算ばかり披露して、見ているこちらが疲れてしまうわ」
外すことの許されぬ投擲は見ていて息苦しい。自らを破滅させるシナリオばかり描くのは自殺志願者のすることだと、は持っていたスプーンをメルクリウスへと向けた。
「大体、貴方がそんなだから愛しの女神をとられてしまうのではないの?」
「彼女は私などが触れて良い存在ではないのだよ」
「またそうやって自虐的なことばかり言う。欲しいなら欲しいと願えばいいのに」
神聖すぎて触れられぬ存在がいるのは理解しているが、土俵に上がることなく諦めだけを口にするメルクリウスには腹が立つとは憤慨する。恋をした、とのたまう割に影法師は奥手で弱気な態度しかとらない。それがまた苛立ちに繋がるのだが問題の男はさして気に留めた風もなく、飄々とした態度で向けられる感情をいなしていた。
「これだから、無駄に長く生きてる人って面倒なんだわ」
カップに残った紅茶を一気に飲み干し陶器の触れ合う音で静寂を乱した後、は改めて対岸に座る男に視線を向けた。
「おやおや、愛想を尽かされたかな?」
「まさか。私は貴方が持つ弱い一面が気に入っているのだし、それに元々愛想なんて私達の間には存在しないでしょう?」
おもむろに椅子から立ち上がり、踵を鳴らしてメルクリウスの背後まで歩み寄る。硬質な音が止むと同時に、椅子の背もたれに白い指がかけられる。いつになく近い距離にメルクリウスは肩を揺らし、背後に立つ存在の行動を待った。
「ねぇ、メルクリウス……そう遠くない未来、きっと貴方も恋をするわ」
試しにもう一つ本気になれるものを作ってみればいいとは笑う。
「ほう、予言かね」
「いいえ?」
予感ではなく確信だと続けるにメルクリウスは嘲笑を上げることで応えとし、何の根拠があって言い切るのか理解出来ないが、追求するほど野暮ではないと自身の内に言葉を仕舞った。
「そうね……あと六十年くらい経てば分かるのではないかしら? だから――」
頑張って、メルクリウス。
背後から回された温もりは今まで感じたことのない未知なるものだ。
舞台が整うのに六十と数年。そしてまた、更に六十年。
「戯言を」
消化しきれぬ未知を呟きに換え、発生した感情をメルクリウスは虚空に溶かす。
瞬きの合間に消え去った質量を少しだけ……寂しいだなんて感じたのは気の迷いに他ならぬと頭を振り、沈まぬ太陽を瞼の裏に再現した。
空虚の中に在る異質。
黄昏の女神とは違う存在感。
現在までを振り返り、自らが持ちうる既知を総動員して検証した後、気付く。
「ああ、なればこそ、あの存在は正しく未知であった」
指の隙間からこぼれ落ちたきらめきを惜しむことなどしない。ただ、後悔という未知が胸の内に収まったのをメルクリウスは理解した。
舞台上で役者は踊り、歌姫は歌い続けている。恐怖劇の幕引きには今しばらくの時間を有し、既知に溢れた明日が押し寄せる。
「せいぜい私の興が醒めぬよう、魅せてくれたまえよ――ツァラトゥストラ」
影は影らしく在るように、薄暗い声を発し虚空へと姿を消す。
「しかし、何故であろうな」
唯一の想いを傾けるのは黄昏であるにも拘わらず、耳に奥に残るのは色鮮やかな紅白。
『暇ならば旅でもすればいいじゃない。今までの貴方がそうしてきたように。先に続くものは、つまらなくも楽しいものだわ』
時に諭すように、揶揄するように、わざとらしい笑みを浮かべながら謳っていた彼女は、もういない。
|