シャンバラと呼ばれる東洋の地は実に過ごしやすい土地柄である。 冬と呼ばれる季節に違いはないが、ドイツよりも寒さは厳しくないしなによりご飯が美味しい。色んな種類がある鍋も、コンビニで売っている蒸し物も、小さな幸せが至る所に散りばめられている日本は幸福の二つ名にふさわしいとすら思う。 「何より美味しいってのが一番よね」 ワンコインで買える幸せに舌鼓を打ちながら、これから何処に行こうかとプランを練る。時刻はもうすぐ深夜に差し掛かろうとしており、賑やかな街のネオンも大分落ち着いてしまった。 冷えて乾いた空気に身を預けているのもいいが、することがないというのは暇である。 「どうしようかな」 ビニール袋の中から新たなあんまんを取り出し捕食すれば、こちらを見ている奇妙な視線に気が付いた。 「テメェ、なにしてやがる」 「あんまんを食べてます」 出現早々向けられた刺々しい言葉に多少むっとしつつ、栄誉ある雑巾爆弾の被害者一号ことヴィルヘルムに食べかけのあんまんを向けた。 彼がこの場にいるということは、共に前線を駈けている水底の魔女もこの場にいるのだろうか。 「ルサルカさんはご一緒ではないのですか?」 「あぁ? テメェにゃ関係ねーだろ、とっとと他行けや」 「何故です?」 彼の方が後から来たのに、先人を追い出そうとするなんて酷い奴だ。これはいよいよ進化を遂げた新生雑巾生クリーム添えの餌食にすべきではないのか。 投擲のタイミングを計る私の前で周囲の気配を伺いながら、ヴィルヘルムはサングラス越しの赤い瞳をこちらに向けた。 「テメェがいると、出ンだろうがよォ」 「出る?」 意味が分からぬと聞き返せば「お呼びかな」と、暗闇を凝縮したような声が静かな公園内で具現化する。 「げぇッ!」 「出自に似合いの挨拶だな、カズィクル・ベイ」 ふらりと暗闇から出現した男は、当然のように同じベンチへ腰を下ろしていた。とりあえずベンチ端へ移動しメルクリウスとの距離を広げてから、改めて何をしにきたのか隣の男に問う。 「嫌がらせをしに来たのではないでしょう? 指揮者が壇上を降り演奏者の中に混ざるなんて、不協和音の原因になると思わない?」 薄笑いを張り付けた顔はなるほど、見る者の不安と苛立ちを増長させる代物だ。歩く猥褻物ならぬ、歩く血圧上げ機とでも形容すればしっくりくるのだろうか。なんにせよ、眼前に立つヴィルヘルムはギチギチと音がしそうに指先を強張らせ、不健康な白貌に血管を浮き立たせている。 「貴方、本当に嫌われ者なのね」 「時間は有意義に使うものだ。違うかね、」 「ケッ、言ってろ!」 視界に入れるのも嫌だと肩を怒らせ立ち去るヴィルヘルムの後姿を見送りながら、今一度何をしに来たのかとメルクリウスに問う。 「私の動機を知って如何する」 「単なる興味かしら」 「ならば、答える義理はあるまい」 夜から切り離されたような黒さを纏い、此処ではない何処かを見つめているようなメルクリウス。そうだ、この地には彼が唯一の感情を向ける黄昏の女神がいる。メルクリウスと良く似た彼と共に、望まぬ戦闘に参戦している彼女達。 心ここにあらずと言ったメルクリウスを確認し、雑巾を投げつけるならば今かとも思ったが、どうにも興が乗らない。 「ねぇ、メルクリウス。暇ならピザまん買ってきてよ」 「考慮しよう」 「それとも、私の代わりに宿の手配してくださる?」 「考慮しよう」 考えているだけで実行してくれる気がないのは分かり切っているが、完全にNeinと言わないのがこの男らしい。 全て他人任せで己は傍観を決め込んでいるから、メルクリウスという存在を知る全てから負の感情を向けられてしまうのだ。唯一の例外と言えば黄金の獣だが、彼の存在は特殊なので数に入れるべきではない。 言葉を交わしていても意思の疎通が無い場合は、会話と表していいものだろうか。 「ねぇ……」 近い位置にいるのに完全に無視をするから少しだけ。 ほんの少しの、本音と意地悪を。 「メルクリウス、私のこと、好きになってよ」 「……さて、今日は四月一日だったかな」 考慮以外の言葉を引き出したのに満足しつつ、こちらを馬鹿にする台詞を吐くメルクリウスに怒りの感情が沸き起こる。今まで流し続けていたのに、こういう時だけちゃんとした反応を返さなくてもいいではないか。 「言うだけならタダでしょう? で、どうなの。私の望みは叶えられるのかしら」 無機質な視線が向けられたのに満足し、クツクツと喉を鳴らすメルクリウスを横目で確認すれば、珍しく口元に浮かぶ月が柔和な弧を描いていた。 「考慮しておこう」 そうして紡がれた良く似て非なる同音に、及第点だと私は笑みを返した。 |