「メルクリウス、貴方以前頭に大きなリボンを付けていたんですって?」
 ふらりと現れた影に問いかければ陽炎のように揺らめき消えそうになったので、逃がすものかと恒例の雑巾爆弾をお見舞いした。始めから当たるとは思っていないが、陽炎の足止めさえ出来ればそれでいい。
「急になんだね」
「写真を見せてもらったの」
「人違いでは」
「ちゃんとカール・クラフトって書いてあるもの、ほら」
 無理矢理奪い取ってきた写真を突きつけると、現在よりも若干若く見えるメルクリウスの姿がモノクロの中に焼き付いている。
 写真に映っている頃はちゃんとした衣服を着ているのに、なにがどうしてこうなったと頭を抱えたくなるような現実。未だ謎に包まれているぼろ布の袖からちらりと見えた二の腕の白さに、思わず視線を逸らしたのはつい最近の出来事だ。
 やっぱりこの人着てない。全裸の上にローブというまごうことなき変態だ。
「仮に私が髪を纏めていたとて、君との関係性は見受けられぬが」
「あら、あるわよ」
「ほう。言い切る根拠はなにかね」
 ストレートなんだかぼさぼさしてるのだか分からぬ髪型よりも、写真のように一纏めにしていたほうが見栄えが良い。というか、正直見ていてむさ苦しい。
「可愛いもの、リボン」
 率直な思いを口にした途端、薄笑いを貼り付けたメルクリウスの表情が固まったような気がしたが、己の欲望を遂行する為にも気のせいだということにしておいた。
「だから、任せて」
「一応聞いておこう。何をかな」
「決まってるじゃない」
 普段付けているグローブを外し、内ポケットから取り出した医療用のゴム手袋を装着する。
 Uピンと呼ばれるアイテムと通常より長めの櫛を用意すれば、準備は万全。
「君が何をしたいのかは大体理解したが、その手袋は必要か?」
 両手を包む必需品に視線を合わせ問うメルクリウスに「勿論よ」と言い返し、必要性を表す決定的な言葉を口にした。
「直に触れたくないもの。理解して下さったなら早く座ってくれる? 貴方身長高いから届かないわ」
逃げられては元の木阿弥だと雑巾越しにぼろ布の裾を踏みつけ、メルクリウスの行動に制限をかける。どうせ全てに飽いているのだから、少しばかり普段と違う体験をしてみるのもオツだろう。
「…………」
「ほら、早く。未知の体験をしたいのでしょう?」
 偽善者でも占術者でもなんでもいいから早く座れと黒い影を誘導し、見た目よりもさわり心地の良い髪に櫛を通した。

 

「失礼致します、お呼びでしょうか」
 黄金の獣から召集が掛かるのはまれのことだと、エレオノーレは姿勢を正す。
シャンバラと呼ばれる東方の地に未だ動きはなく、メルクリウスの代替品となる存在も未だ不透明であるのに、三騎士の一角である己が呼ばれた意味は何かと考える。
「ザミエル、面を上げよ」
「ハッ!」
 ラインハルトの言葉に従い視線を上げたエレオノーレは思わず息を呑んだ。黄金の獣の荘厳さに変わりないが、鬣である豪華な金糸に違和感がある。左右に流れる金の川に紛れ込む三つ編みと黄色いリボン。
「……お聞きしてもよろしいでしょうか」
「許す、なんだ」
 喉の奥に張り付いてなかなか出てこない言葉を無理矢理構築し、理解を放棄しようと真っ白になりそうな思考をエレオノーレは必死で繋ぎ止めた。
「あ、その……」
 珍しい装飾品を身に付けていらっしゃいますね。
 必死の思いで紡ぎ出そうとした単語は、具現化する前に突如現れた影法師に攫われ水泡に帰した。
「我が親愛なる獣殿、お尋ねするがが此処に来なかったかね」
 誰しもが存在を感知しただけで負の感情が湧き出る存在。
「…………」
 漆黒のローブと同様の髪を翻し、全てを見通す白磁の相貌を持つ副首領。
 の、はずが。
「カール、随分と楽しいことになっているではないか」
「それは貴方にも言えることであろう、獣殿」
 ラインハルトの黄金に混じる三つ編みとリボンが可愛いと思えてしまうほど、眼前に立つ影の見た目は凄いことになっていた。
 普段下ろされている長い黒髪は結い上げられ、天を向いた螺旋の周囲には色鮮やかな花が飾られている。
 影が動く度に涼やかな音を立てる装飾品は東洋の花魁を連想させ、形容しがたい雰囲気に拍車をかけていた。見た目だけなら、これが副首領と畏怖される男なのかと疑ってしまいたくなるほどの出来映え。
ならば先程イザークの元へ行くと言っていたぞ」
「情報感謝する」
「カールよ」
 立ち去ろうとするメルクリウスを呼び止め、ラインハルトは艶やかな音で静寂を破る。
「アレは見えぬのか?」
 主語のない問いを察することの出来ぬエレオノーレとは違い、メルクリウスは珍しく苦笑とも嘲笑ともとれる笑いと共に肯定の言葉を紡いだ。
「いかにも。至極興味深い」
「難儀なものだな」
 くつくつと気に障る笑いを漏らしながら掻き消えるように去るメルクリウスを見つめ、エレオノーレは悪寒に似た感情に背筋を強張らせる。
 悪い予感ほど良く当たる。そんなジンクスを証明するかのように、ラインハルトは眼下に片膝を付いたままのエレオノーレに向かい、自らの元へ呼び立てた理由を述べた。
「卿を呼んだのは他でもない。ザミエル、が卿の髪を結い上げたいと私に願ったのでな」
「……は……?」
 全てを等しく愛する黄金の獣から賜った死刑宣告に、過ぎ去った影の容貌がエレオノーレの脳裏にこびりついた。

BACK