ふと見上げた先に居た人影に、妙に心惹かれたのはただの偶然だろうか?
「おや……。こんばんは」
私の視線に気が付いたのか、視界に映る相手は体を反転させこちらに顔を向けた。疾うに日は落ち月の光だけが照らす空間で、その人はまるで亡霊のよう。
微かな風に揺れる白い髪や、存在そのものがあまりに幻想的過ぎて思わず息を呑んだ。この世界に、こんなに綺麗な人がいるもんなんだ。と嫉妬と羨望の眼差しで見つめていれば、私の意を汲んだのか、その人は肩を振るわせ笑い始めた。
不躾すぎて可笑しい、というのがその人の言い分。確かに綺麗な人だなと思って見ていたけれど……自分で思っている以上にじろじろ見ていたのだろうか。
不快感を与えたなら申し訳ないと謝罪の言葉を口にすれば、本当に面白い、とその人はまた笑う。
「失礼ですけど……あなた人間ですか?」
「……」
白すぎる肌に血色の悪い顔。一瞬幽霊かと思ってしまったのも当然でしょ?
「ご期待に添えなくて悪いけど、この通り僕は生きているよ」
「……ですよね。すみませんでした」
「別にいいけどね。ところで」
ゆっくりとした足取りで近づいてくる彼の姿はやはり幻想的で、どうしても普通の人というイメージが持てない。
「君は、何処から来たんだい」
手が触れるか触れないかの距離で歩みを止め、彼は私に問う。
「何処からって…………あれ?」
そこで初めて私は、今自分が居る場所に気を留めた。
武田の領地内でも春日山でもない、見慣れない景色に疑問が募る。月の位置からして、時刻は深夜。とすれば就寝しているハズなのに……?
「分からなくても仕方ないか」
「どういう事です?」
私が問えば、彼は僕もやきが回ったかな。等と、捉えようによっては失礼な単語を発した。
「君、名前は」
「え」
「答えられないのかい?」
「あ、いや……」
「まぁいい」
急に先を遮られるとこちらとしても非常に気になるんですが……。問うてみようと口を開けば、私よりも先に彼の言葉が紡がれた。
「君が何処から来たのか僕が教えてあげよう」
「え?」
何故彼が私が居た場所を知っているのだろう? そもそも初めて会ったのに何故? 浮かんだ疑問を口に乗せようとすれば、信じられない単語が彼の口から滑り出す。
「死者の国だよ」
「は?」
問おうと思った疑問は全て消え失せ、何言ってるのこの人。という単語が思考を占めた。私が死者の国から来たなんて冗談、面白くもなんともないんですけれど。もしや戦国時代では最高のジョークになったりするんだろうか?
「あの……」
「良く見てみなよ」
促された先にいるのは私自身。
「贔屓目に見ても、君が生者だとは考え難いけどね」
彼に固定していた視線を自らの足下に向ける。
黒い靴、普段は着ない黒いドレス。
そして……。
「君が生きている頃に会いたかったね」
肩から胸に流れる髪は、自らの物とは異なる、銀色。
これは誰だ?
疑問が私という存在を否定し、闇に溶けるように私は消えた。
「っ…………!!!」
開けた視界に映るのは、見慣れた天井。
勢い良く上体を起こせば、早鐘のような心音が煩く響く。
恐る恐る肩にかかる髪を手にすれば、先程みたような銀の色では無く安堵の息を付いた。
「……夢……? だった……の?」
夢にしてはやけにリアル。
「名前聞き損ねたなぁ……」
どうせなら聞いてみたかった。
あんな美人さんなかなか会えるハズもないし、是非お友達になりたかったのに。後悔先に立たずとは良く言ったものだ。
「しかし……なんだったんだろ、あの夢」
私じゃない私と、名前も知らない美人さんとの妙にリアルな会話。消える間際、頬に触れた手の感触まではっきりと思い出す事が出来るのに。
「まいっか……寝よ」
考えても仕方ないので今一度布団に戻れば、残っていた温もりに誘われるように急速に意識が落ちた。
「何をしている」
背後から掛けられた友の言葉に緩く口角を上げて振り返る。
「君こそ、明日に差し支えるよ」
「フッお前も同じだろう」
「そうだね」
上空の月を見上げれば、思い返すのは先程の邂逅。
暗闇に佇む彼女の姿に一瞬で目を奪われたのは、ほんの数分前だというのに。
微かに触れた頬は冷たく、あれは死者だったのだと理解はしているのに、心の何処かで実在していればと願ってしまう。会ってどう、という訳でもないが、ただ……今一度会えるのならば。
「先に戻るぞ、半兵衛」
「おやすみ」
敬愛する友に就寝の挨拶を告げ、独り残された空間に立ち竦む。
明日もやらねばならぬ事は沢山あるのに。こんな所で無駄な時間を過ごすのは得策でないと解っているのに。
「何がしたいんだろうね……僕は」
冷えた空気を肺の奥まで吸い込めば、微かに痛みを訴えるこの躰。
叶わぬ事を夢見る時期はもう過ぎた。
「馬鹿馬鹿しい……」
自分にもまだ優柔不断な心が残っていたのだと、思わず苦笑が漏れる。
先程のは疲労した脳が見せた幻覚。それを追い求める程、自分は落ちてはいない。
だから、今は。
彼女の立っていた場所に一瞥をくれ、策を練るべく踵を返した。
天を彩る月は未だ高く、日は遠い。 |