一つ、決して灯りを消さない事。
一つ、意図的に物音を立てない事。
一つ、夜半に訪問しない事。
それが、暗黙の三箇条。
「うーやっぱ冷えますねぇ……」
米沢城に滞在しはじめて早数日、すでに寒さの前に陥落寸前の私。暖房器具が発達した現代人の私には、この時代の寒さは酷く堪える。風は清々しい程に冷たいし……暖といっても微々たるもの。冷え性にとっては地獄に等しい環境だ。
「動きづらくないか? 殿」
自前の服を下に着込んで、更に上から簡易的な着物を何枚か羽織る私を見て、真田さんは苦笑を漏らす。例え動きづらくとも寒さを軽減する方が先だ。
「だって寒いんですよ」
出来る事ならば体中にホッカイロを仕込みたいと心中で呟きながら、果たして冬越え出来るのだろうか、と多少の不安が過ぎる。
「某はそんなに寒くないが……」
未だ素肌にジャケットを羽織っただけの状態というのが信じ難い。この体温を奪う風をもろに受けているというのに、真田さんは気にもしてないというのが……。やはり時代の違い、というものなのだろうか。温暖化が騒がれていた世界と比べれば、こちらは平均温度が低いのだろう。
「わ、私はもう無理ですけどね」
すでに冷たくなっている指先を擦り合わせれば多少の熱が生まれる。
「今からそれでは……先が思いやられますな」
「冬になったらなったで、また着込むからいいんです」
恨みがましい目で真田さんを見上げれば、差し出される右手。熱源を得たいという本能から手を取れば、ゆっくりとした暖かさが伝わってきた。
「……本当に冷たいでござるな」
「だから寒いんですってば」
末端冷え性は伊達ではない。年中無休で冷たいこの手足、とくと体感あれ!
「……真田さんは暖かいですねぇ」
やはり炎を扱う人は体温も高いのだろうか? 技を出して貰えば少しは暖かくなるかもしれない、と馬鹿な事を考えながら廊下を歩く。
「では殿、某はここで」
「はい、わざわざ有り難うございました」
宛われた部屋の前まで送ってもらい、真田さんと別れる。小さくなる後ろ姿を見送って、部屋へと続く襖を開けた。
静寂が支配する部屋の中で軽く深呼吸すれば、冷たい空気が肺へと流れ込む。
「また、夜か……」
姿を見せた白い月を窓の向こう側に確認し、人知れず溜息をついた。
本来夜は嫌いではない。むしろ今までは夜行性だったといっても良いほど、夜は好きだ。あの冷たい空気も、静けさも。静かな空間だと考え事もはかどるし、なにより自分だけの時間を満喫出来るのが醍醐味だった。
だけど、この時代の夜は……暗い。
ネオンの明かりに慣れ親しんだ生活を送ってきた身には、行灯の光は暗すぎる。城下を眺めても、そこにあるのは暗い静寂だけ。この時代に来て、初めて暗闇を怖い、と思った。何もかもを呑み込むような静寂が恐ろしいと、そう感じた。
「便利な世の中も考え物だけど……ちょっと、辛い……かな」
真田さんに繋いでもらった手の温もりはとうに失われ、外気に触れた指先は再び冷水の如き冷たさに変わる。
「……さむい」
声に出せばさらに体温が下がった気がして、私は敷かれた布団に潜り込んだ。
早く、朝が来ればいい。
「なぁ、梵」
空になった徳利を横に転がし、成実は言う。
「武田にいるあの女はなんだ?」
「Ah-……の事か?」
杯に残っていた酒を呷れば、胃の辺りが熱くなる。心地よい熱を感じながら、政宗は肘掛けに凭れ掛かった。
「名のある武将に部屋まで送らせるって事は、どっかの姫さん何か?」
数時間前目にした状況を告げれば、政宗の口角が微かに上がる。政宗が浮かべる表情は何かを隠している時に良く見せるもの。ということは、やはり何らかの秘密があるに違いない、と成実は推測する。
「が気になんなら、行ってみたらどうだ?」
「面識もないのに?」
「Ha! お前が立前を気にする柄かよ」
手酌で酒を注ぎながら呷る政宗に、何を聞いても無駄だと悟る。
西から来たらしい娘。不思議な力を行使した……という噂もある。もし……万が一にでも、対立せざるを得ない状況が作り出されてしまったら? 例え政宗が武田に従おうとも、自分の主君は政宗以外にあり得ない。
「殿、少しよろしいですか?」
まるで図ったようなタイミングで開けられた襖が、何故か自分に行けと言っているような気がして成実は席を立つ。
「おや? 成実様、このような時間にどちらへ?」
酒ならば頼めばよろしかろう、と続けられた言葉に、厠だ。と一言返し成実は政宗の部屋を後にした。無論行き先は……ただ一つ。あの不思議な娘の元へと。
「くっ……面白い事になりそうだ」
成実が消えた方向に視線を遣りながら咽の奥で笑う政宗の意図が分からず、小十郎は開けたままの襖を閉めた。
耳に届いた違和感で目が覚めた。
ぎしり、と床の軋む音。障子の向こうに広がる色は未だ闇のまま。ということは、まだ夜が続いているということ。一体何の音だろうか? 布団の中で体を反転させ廊下の方に視線を向けてみれば、またぎしり、と音が鳴る。風が奏でる音とは異なったそれに、暖まった体が冷えていくのを感じた。
息を殺して布団の中で身構える。
部屋を照らす灯りが微かに揺れ、消えた。
「っ!!?」
声にならない叫び声を上げ、廊下へと続く襖を凝視すれば……微かに、動いた。ほんの少しだけ、左右に開かれる襖を瞬きもせずに凝視すれば。
目が、合った。
「…………………………」
廊下に灯された光が、よりにもよって相手の一部だけを浮かび上がらせる。暗闇の中、闇に溶けるようにして認識出来る……人の、目。
心臓が早鐘のように鳴り始める。
どれほどの間凝視していたのだろうか。突然視界に戻った闇と共に、私は起きあがる。微かな温もりを与えてくる布団を後にし、畳の上に立ち上がれば途端に冷える手足。その手足に呼応するかのように冷たく凍結していく感情を、頭の隅で認識していた。
中途半端に開かれた襖を両手で左右に追いやり、暗い廊下を見つめれば遠くの灯りに照らされ微かに動く影を捉えた。
静寂に支配された空間に一歩踏み入れれば、まるで拒むかのようにぎしり、と音を立てる。足から伝わってくる身を切るような冷たさに軽く息を吐き出して、去った影を追うべく歩を進めた。
視界に映るものはごく僅かなのに、何故か真昼のように景色が認識出来る。相手の姿はとうに消え去っているのに、歩みの軌跡がくっきりと示される。きっと私は怒っているのだ、と。どこか他人事に考えながら薄明かりの中軌跡を辿った。
気配がある。
私から死角になる場所に在る一つの気配。今まで導いてきた軌跡もその場所で終わっている。ということは、今隠れている人物こそ先程の訪問者という事になる。違えようのない確信を持って、私はゆっくりと片手を上げた。
地響きのような音が近づいてくる。
今まさに口を付けんとしていた杯を盆に戻し、政宗は音のする方へと視線を向けた。
「殿」
「Un……? 誰だこんな夜中に」
coolじゃねぇなぁと呟きながら杯を再び手にした途端、部屋の襖が勢い良く開いた。
「梵、梵っ!! こ、殺される!」
匿ってくれ! と涙ながらに叫び成実は政宗を盾にするようにして背後にまわった。
「どうなさったのですか、成実様」
仮にも伊達の三傑と呼ばれる男が、夜も深い時分に半泣き状態で帰ってくるとは一体何があったのだろうか。しかも殺されるという物騒な台詞のおまけ付きとなれば穏やかではない。
「Ha! 幽霊でも見たってぇ顔だな? coward」
普段ならば殴り合いにでもなりそうな台詞を投げても、当の本人は殴りかかるどころか青い顔をさらに青くしただけだった。
「……成実?」
流石の政宗も何かがおかしい事は理解した。普段から命の取り合いを常とする自分達が、今更怯えを感じる事などごく僅かなはず。ならば本当に幽霊でも出たか? らしくない発想を思い浮かべ政宗は咽の奥で軽く笑う。
「ヒッ」
まるで政宗の笑いに呼応するかのように上がった悲鳴に、成実の視線を追えば。
「……?」
能面のように、何の感情も表さないが廊下に立っていた。
「ど、どうなされました? そのような格好で……」
親しくない女性が小夜姿で現れれば、誰だって動揺する。しかも、成実の恐怖対象が彼の女性となれば、余計に。一応聞こえているのか、は小十郎の方へ視線を動かし、夜分遅くにごきげんよう。と挨拶らしきものを述べた。
「そこの御仁に用がありまして」
底冷えするような声で告げられ、成実はいっそう体を固くする。
「Oh honeyこんな時間に用があるってぇことは、夜這いか?」
妬けるねぇ、と人を食ったような声色で告げる政宗に、は笑顔を浮かべ。
「いいえ、夜襲です」
そのまま軽く片手を振り下ろした。
「とっ……殿!?」
が腕を振り下ろすと共に、政宗の手の内にあった杯が真っ二つになって床へと落ちる。何が起きたのか分からないといった政宗と小十郎とは違い、成実は更に後方へと逃げた。
「…………成実、お前……何ヤッタ?」
「な、何もしてねぇよ!! ただ、ちょっと部屋を覗いただけ……うわっ!!」
逃げ回る成実を追うように、見えない刃が振り下ろされる。軽い音を立てながら哀れな姿へと変貌を遂げる調度品に、政宗の口元が引きつった。
「心配せずとも、痛みなど感じませんよ」
だから逃げるなと笑顔で告げられ、立ち止まれる輩はいるのだろうか。
「武人ともあろうものが……引き際くらい見極めたら如何です」
行使される力と共に告げられる言葉はまさに死刑勧告そのもの。立ち止まったら殺されるとばかりに逃げまどう成実に、ゆっくりと近づいて行くはまるで死に神のようだ、と政宗は思った。
「あっ……」
前方に広がる壁を認識して、今までの自分の行動が誘導されていたのだと気付く。だが、時すでに遅し、恐る恐る背後を振り返れば相変わらずの無表情を湛えたが立っているだけ。加勢してくれない主と仲間に、心の中で怒声を吐きながら成実は最後の足掻きとばかりに壁に背を付けた。
「え、や、あのちょっ……まじ……?」
脂汗を流す成実には花が綻ぶような笑顔を浮かべて一言。
「Good night」
異国語で告げられた就寝の挨拶に、成実は完全に血の気が引くのを感じた。目の前でゆっくりと上がっていく片手がまるでコマ送りのように認識され、顔の高さまで上がった所で。
「わっ!」
はそのまま、後ろへと倒れた。
「……っ……ね、寝てます……」
寸での所で、受け止めた小十郎がの状態を確認すれば、安らかな寝息が聞こえるだけ。眠るの姿を確認して、腰が抜けたようにへたり込む成実を見遣り政宗は大きく溜息をついた。それが安堵からくるものか、はたまた己の部下の不甲斐なさからくるものかは分からなかったが。
「……というような夢を見たんですよ。やっぱ寒いと夢見も悪くて駄目ですねぇ」
翌朝たまたま廊下ですれ違ったから昨夜が見た、夢。というものを聞いた佐助は、とうとう伊達軍にも被害者が出た事を悟ったという。
の睡眠を妨げる行動をしない事。言い忘れていた重大な事柄を改めて告げれば、もう遅ぇよ! という政宗の怒声が秋晴れの空に響き渡った。
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