軍師付きの文官は忙しい。
 戦前よりも味方が戻ってきた後の方に修羅場が待っているというのが、普通の武官付きと違うところだろう。報告書のまとめから、戦中に起こった不手際、計画ミス。大きな事柄から些細な事柄まで気に掛ける上司を持つと大変だ、というのが同じ立場にいる下っ端達の共通した考えだ。
 土気色の顔をしてふらつく足取りで歩いている人をみると、奇妙な連帯感を覚える。それは相手も同じなのか、すれ違いざま今にも倒れそうな顔に無理矢理笑みを浮かべ、「お疲れ様です」と言葉を交わした。

「郭嘉様、新しい墨のご用意が出来ましたので、こちらに……?」
 上司である男の執務室へ訪れれば、見慣れない女の人が一人。戦に行く前には居なかった気がするけれど、郭嘉のことだ。日の高い内からよからぬ行為に及ぶのではないかと、窘める意味も込めて片眉を僅かに上げる。
「郭嘉様」
 もう一度書簡から顔を上げぬ男の名を呼べば、郭嘉のすぐ傍に立っていた女の人が艶やかな笑みを貼り付け、郭嘉の代わりに答えをよこした。
「私、本日付けで郭嘉様の女官に任命されましたの。どうぞ宜しくお願い致しますね」
 女が喋る度にピリピリと空気が震える。ああ、この雰囲気には覚えがある。郭嘉と関係を持った女の人が自分に向けてくる空気にそっくりだ。ということは、まさか――。
、司馬懿からの預かりがあるだろう」
「あ、はい」
 頼まれた書簡を渡すべく距離を詰めると、後数歩というところで女官の人が私の前に立ちふさがった。
「これは私が」
「でも……」
「貴女には別のことを頼みたいと、郭嘉様はおっしゃっておいでですわ」
「別の事?」
 用件はなんだと視線で訴えるが、こちらを見ようともしない郭嘉と意志の疎通が出来るはずもなく。
「後はご自分で、ですよね? 郭嘉様」
 これ見よがしに郭嘉に擦り寄る女官の人が……気に入らない。昨日の今日でここに来たにも関わらず、私の事を貴女呼ばわりするのも、何もかも気に入らない。
 もやもやとした気持ちを抱えながらも、此処にいては何も進まないと私は一礼して執務室を去ることにした。扉を閉める間際、勝ち誇った笑みを浮かべた女官の人を見なかったことにしながら。

「なんなの、あの人」
 ただでさえ連日の激務で睡眠不足だったところに、あの仕打ち。郭嘉の嫌がらせとも思ったが、少しばかり違う気がする。嫌がらせならば、私の目の前でいちゃつき始めるはずだ。となると、あの女官は一体どこから派遣されたのだろう? 郭嘉と仲の悪い陳羣からの差し金だろうか? いやだがしかし……。
 悩んでも先に進むどころか、気持ちは後退していくだけ。
「あー、もう!」
 とにかくむかつく。郭嘉も女官も。
「勝手によろしくやってればいいのよ!」
「オイオイ、随分と荒れてんなぁ」
「ええ、貴女ともあろうものが珍しい」
 まさか聞かれているとは思いもよらず、慌てて振り返った先にいたのは苦笑いを浮かべた二人。
「かっ、夏侯淵将軍に荀ケ様……。お見苦しいところをお見せしまして……」
「また郭嘉ですか?」
「はぁ、まぁ……」
「お前ぇが怒るなんて、アイツ以外にありゃしねーからな」
「そうなんですけど……」
 普段ならさらりと流してしまえる状況に、こうも苛立ちを覚えるのは何故だろう? 睡眠不足で疲労がたたっているからなのだろうか。
「荀ケ様なら……」
「はい、なんでしょう」
「あ、その……郭嘉様に宛がわれた女官の方に関して、何かご存じではないかと」
 私の言葉に二人は顔を見合わせ、同じように首を傾げる。
「郭嘉が望んだのでは?」
「かもしれませんが……」
「本人から聞いてねーのか?」
「はい」
 女官というよりは女郎のような雰囲気を纏っていた女の人を、郭嘉が連れてきたというのならば納得出来る。けれど、思い返せば返すほど、妙な違和感がつきまとって消えなくなるのだ。それが余計に苛立ちを助長させてくる。
「郭嘉は先の戦で指揮を執ってましたから、余計に忙しいのかもしれませんね」
「だから付き人を増やしたって?」
「憶測ですが、否定も出来ないでしょう」
「たしかにな。つーわけで。ちっとだけ我慢してみろや」
 夏侯淵将軍直々に言われてしまえば、頷く以外の選択肢はない。お手数をお掛けしました、と二人に礼を言い、私はこれから必要になるであろう竹簡を発掘するために書庫へと向かった。
「今度の休みにでも、虫干ししなきゃなぁ」
 ツンと鼻の奥に届くカビのような匂いに眉を顰め、保存されている膨大な資料を前にし、更に気持ちが沈んでいく。本当ならば司馬懿からの書簡を郭嘉に預けて、久々にゆっくり眠れると思っていたのに。こんなもやもやした気持ちのままでは悪夢を見てしまいそうだ。
 凄く眠いのに眠くない。ほぼ徹夜状態で何日も過ごしていたせいで、脳はとっくに麻痺し体が正常に機能しなくなるのはよくあることだ。
「どうせやらなきゃいけないんだし」
 眠る為に頑張るくらいならば、その頑張りを労力に向けてしまったほうが後々楽になる。
「頑張っちゃいますかね」
 気持ちを切り替えて竹簡の発掘作業を開始する。きちんと整理されているとはいえ、必要となりそうな資料は至る所に点在していて、探し出すのに骨が折れそうだ。
「流石に夜更けくらいになれば、あの人もいなくなってる、よね……」
 ただの女官ならば、勤務時間が終了すれば己の室へと戻るはずだ……多分。
「郭嘉の好みって、分からない」
 派手な女の人と付き合いが多いのは知っているけれど、やはりあの女官は今までの人と何かが違う。もし……もし、彼女が郭嘉にとっての「本命」だったら、私は……どうすべき、なのだろう。
 今まで同様郭嘉付きの文官として職務にあたるべきか、それとも郭嘉の娘として二人に気をつかうべきか。
「……」
 資料を探すよりも思考に耽る時間の方が多いせいで、思うように作業がすすまない。なるべく考えないようにと自身に言い聞かせてはいるけれど、どうしても脳裏に二人の姿が浮かんでしまう。
「やっぱり、やだ、な……」
 ぽつりと漏らした泣き言が想像以上にしっくりきて、なんだかんだいって郭嘉に依存しているのは自分の方だと思い知らされた。

 

「遅くなっちゃったな」
 夕餉を食べず職務にあたったせいで、お腹が切なげな音を鳴らす。資料を郭嘉の執務室に届けたら、休暇願いを出して、ゆっくり湯浴みをして……朝一で食料を調達しに町に降りよう。人気の無い回廊を歩きながら、降ってきそうな星空を見上げる。温かな季節といっても夜更けはまだまだ冷える北の国。吐き出した白い息に目を細め、穏やかな休日を入手すべく郭嘉の執務室へと急いだ。
「灯りが、ついてる」
 不良軍師が夜更けまで仕事をしているとは珍しい。起きているなら起きているで都合がいいと、扉を開けるべく竹簡を抱え治したところで悲劇は起きた。
「あら」
 突如開いた扉から降り注ぐのは、闇の色。
「いつからそこにいらしたんですの?」
 ぽたぽたと落ちる雫が床を汚していく様をぼんやり見つめながら、対面している存在に意識を向ける。
「私としたことが……間違えた濃さの墨を捨てにいくところだったのですが……まさか、貴女が居るなんて思いもよらなくて」
 ごめんなさいね。と軽やかな音程で紡がれる謝罪の言葉を右から左へと聞き流した。
「……郭嘉様に……」
「はい?」
「資料は、日が昇る迄にお持ちすると、伝えて下さい」
「分かりましたわ」
 にっこりと微笑む女官と目を合わせぬようにそっと伏せて、来た道を急ぎ足で戻る。両手に抱えた竹簡から滴り落ちる真っ黒な水。早くしないと手遅れになるかもしれない。
「郭嘉の、馬鹿」
 目頭が熱く感じるのは目は乾ききっていてるせいだと言い聞かせ、遠く離れた睡眠を思い特大級のため息を漏らした。

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