「ぜーはー……」
空は青く、雲は白く、ジリジリと肌を焼く強い日差しが降り注ぐ晴天な本日。
ワタクシ、の意識は今にもブラックアウトしそうです。
ただでさえ距離のある城の外壁を三十週もしてこいだなんて、あの軍師様は鬼に違いない。そうだ、鬼軍師以外の何者でもない。人は見かけによらずというが、あの人は人懐っこそうな仮面の下にとんだ悪鬼を飼っているものだ。きっと呂蒙様を始め、呉の方々はそれをご存じないに違いない。
「ひぃ、ひーひー……」
酸素の足りない脳で思いつく限りの恨み辛みを並べてみるが、視界の揺れが治まる事はなく次第に酷くなるばかり。
「ったく、おっせーな! 早くしねーと夕餉までに戻れねーぞ!」
「うげほっ」
周回遅れとなった私の背を、爽やかな笑顔で同僚がドツいていく。なんだお前は、私を殺したいのか。転倒させれば満足か。
「ま、いつもの事だけどな。死ぬきでがんばれよー」
「い、われ、なく、て、も」
笑い始めている膝を叱咤して、一歩づつ距離を縮めていく。
先程まで頭上にあった日は大分西へと傾いているが、日差しは相変わらず強いままで、ため息に似た苦しい息が漏れる。このままでは肺の酸素が空っぽになってしまうのではないかと危惧するが、案外人間というのは丈夫に出来ているもので、今まで何度かあった走り込みもなんとか完走することが出来ていた。……一度も日のある内に帰城出来たことはないが……。
「だ、だい、たい、なんで……わ、たしが……戦闘、よう、いん……なの、よ」
思い返せば夏前のある日。
城で人材を募っているというので志願したが、その時たしかに「文官」として働かせて頂きたいと言ったハズだ。面接をした老人も人の良い笑顔で頷いていたと思ったが、あれは私の勘違いだったのだろうか。
たしかに「武官」と「文官」は音的に一文字しか変わらないが、聞き取れなかったなら聞き取れなかったとハッキリ言えよあの爺……と、思わず普段は隠している黒い何かがもやもやと浮き出てきてしまう。
「体力は、ない、って、の!」
こんなことなら、あの陰険軍師の手伝いをしていた方が楽だった気がする。
走馬燈のように流れていく光景にだらしなく口を半開きにしながら、今度こそ目の前が真っ黒になった。
「はまだ戻らないのですか」
日もどっぷりと落ちた鍛錬場で陸遜は声を上げた。
「ハッ、本日も倒れておりましたので……あと一刻ほどはかかるかと」
「……また、ですか」
という使えない新米を脳裏に浮かべ、陸遜はあからさまに落胆の意を表した。そもそも女であり、体力も武術の心得もからっきしの娘が、何故自分の軍に配属されたのか陸遜は理解に苦しんでいた。本人が武官になりたいと言ったらしいが、使えないにもほどがある。陸遜の容姿目当てで志願してきた者は今までも大勢いたが、その都度面接でふるい落としてきていたハズだ。なのに何故あの者だけ。
しかもすぐ辞めると思ったらこれがなかなかしぶとく、一向に上達しないのに末席にしがみついている。
これでは捨て駒としても利用価値はないと嫌悪を瞳に乗せ、今一度陸遜は配下の者にを回収してくるよう指示を飛ばした。
「た、ただいま、もどり、ました」
タイミングよく入り口付近から掛けられた声に陸遜は視線だけで確認し、組んでいた腕を下ろす。
「随分と悠長なお帰りですね、」
「も、しわけ、ありません」
陸遜の嫌味に頭を垂れ、未だ息の整わないは苦しそうに肩で息をし続ける。
「まったく……何故貴女のような人が我が隊にいるのでしょうか」
普段は温厚な皮を被っている陸遜から出た辛辣な発言に、配下である兵達は一斉に息を呑んだ。まるで戦場で見せるような雰囲気に誰もが口を噤む中、だけがだらしのない笑みを浮かべ、「体力付きにくくて」と雫の垂れる髪を耳にかける。
真っ白な髪に真っ白な肌から滴り落ちる汗。それだけ見ていれば美女と言えないこともないが、いかんせん愛でる前にという存在は陸遜の部下になるのだ。
「 、連帯責任という言葉を知ってますか」
「はい……申し訳ございません」
「謝るだけなら誰でも出来ます」
「ごもっともです、はい……」
「貴女の帰りが遅いせいで、他の者に迷惑が掛かっているのです。分かっているのですか」
「十二分に」
これ以上言っても時間の無駄だと思ったのか、「もういいです」と陸遜はため息混じりに言葉を漏らし、近場にあった剣をの元へと投げた。
「り、陸遜様?」
「取りなさい」
陸遜の命に従い足下に落ちた剣を両手で持つ。
「おい、あれって……片手剣だよな?」
「だな。アイツあんなのも持てないのか?」
が手にした剣は、未だ剣先が地面に付いたままで、しかも小刻みに震えている。いくら走り込みの後で体力がないといはいっても、これは酷すぎるだろうというのが満場の考えだ。
そんなを冷ややかな視線で見下しながら、陸遜は「私から一本でも取れれば今日の所は見逃して差し上げましょう」とこれまた無理難題をに押しつけた。
「わ、私が陸遜様、から、ですか!?」
「ええそうです」
にっこりと癖のある笑みを貼り付け、陸遜も手近な剣を手にする。
「参りますよ」
「ま、まって、まってくださ、陸遜さっ!」
「戦場で待った、はナシです」
軽い跳躍と共に一気に距離を詰めてきた陸遜には慌てるばかり。なんとか剣を持ち上げようとするも、鈍い音を立てて地面に戦を描くだけとなった。
「ッツ」
「――貴女は」
ひやりと首筋に当てられた刃に、が息を呑む。少しでも動けばすっぱりといってしまいそうな距離で寸止めされた刃は、溢れ出る汗を冷たいものへと変化させた。
「それしきの得物すら扱えないのですか」
間近で紡がれる言葉に瞬きすら忘れ、は陸遜の相貌を見つめる。
「呆れてモノも言えません」
今日はここまでです。と響き渡る冷たい声に、兵達は緊張を募らせ、終了の合図と共に逃げるよう鍛錬場を後にした。
「貴女も戻りなさい」
「で、ですが……」
「これ以上私を怒らせたくなければ」
「ッ……失礼、致します」
引き摺るように剣を戻し、一礼して去っていく。
「本当、なんで貴女のような人が私の隊にいるんでしょうね」
の消えた方向に再度同じ言葉を投げかけ、陸遜は本日何度目か分からないため息を零した。 |