「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、もう無理腕つる!!」
「煩いぞ馬鹿めが!」
険悪な空気と罵詈雑言を廊下まで漂わせる光景は魏国では見慣れたものだ。穏やかな気候とは無縁な空気は近寄る者の足を遠ざけ、更に隔離的な空間を作り出す。
そんな淀んだ空気の中で乾いた音を響かせながら、呪文のようにブツブツと不満を呟き続ける女。
「いい加減黙らんか!」
タダでさえ悪い顔色を更に悪くして、司馬懿は愛用の黒扇でと呼ばれた女の頭を叩いた。
「いっったああああああああい! 何するんですか司馬懿様! たとえ司馬懿様と言えども許される事と許されないことがありますよ!? そこんとこわかっ……アッイター!!」 が最後まで言い切る前に、小気味のいい音が室内に響く。
「喋る暇があったら手を動かさんか! この馬鹿めが!!」
「ッ! 言われなくても動かしてますよ! はい次!!」
処理の終わった竹簡を手早く纏め、部屋の片隅に積まれている山の上へそっと置く。
「まったく郭嘉殿は何も言わんのか」
「……郭嘉様は司馬懿様と違ってお優しい方ですから!」
「……はぁ?」
「なんですか、その胡散臭いと言わんばかりの声は! あの方は仕事さえきっちりやっていれば、喋っていようが黙っていようが気になさらないんですー!」
頬を膨らませて反論するに一言返そうと司馬懿は口を開いたが、なんとなくが哀れに思えたのでそのまま言葉を呑み込んだ。
「大体なんで私が司馬懿様の手伝いをしなければならないんですか!」
「……お前が勝手にしてるんだろう」
「…………そうでした」
がっくりと肩を落としつつも手は休まる事を知らない。
さすがは郭軍師付きの文官と言ったところか。
内心で賛辞に似た感想を述べながら、ブツブツ言い始めたの頭を今一度黒扇で叩いた。
「はー、終わった! 今日も一日頑張った、お疲れ様私!!」
凝り固まった肩をほぐすべく伸びをすれば、たまたま目のあった女官にくすくすと笑われてしまった。ほんの少しの気恥ずかしさを感じながら、は自分の上司である郭嘉の元へと歩を進める。
「それにしても、なんでこう軍師って職業の人はああも病的なのかしらねぇ」
上司である郭嘉然り、司馬懿然り。強いていえば荀ケと荀攸の叔父と甥コンビは、軍師の中でも明るく体面も良い気がする。
郭嘉もお二方を見習えばいいのに。胸中で呟いて、愛想のよくなった郭嘉を思い浮かべ
は慌てて頭を振った。
「気持ち悪い」
満面の笑みを浮かべて立ち話をする郭嘉の姿を想像しただけで、去った寒気が足元から這い上がってくる気がした。
「郭嘉様ー、郭嘉様、いらっしゃらないんですか?」
執務室の前で住人の名を口にするが、寝ているのか出かけているのか、中から人が出てくる気配はない。本当に出かけているならばいい。ただ……時々郭嘉の部屋ではよろしくない事態が展開されていることも知っている身としては、返事がないからと言って扉を開ける勇気がない。
「どうしようかな」
司馬懿の手伝いが終わったら一声かけるようにと命を下したのは、他の誰でもない郭嘉その人だ。偏屈な上司のこと、命を破れば嬉々として嫌がらせされるのは目に見えている。
「どうしよう……」
「何がどうしよう、なのだ」
「!!」
中にいるはずの人物の声が耳元で聞こえ、は思わず身構えた。
そんな彼女の行動を喉の奥で笑いながら、扉の前で固まるに覆いかぶさるようにして郭嘉は言葉を紡ぐ。
「何を緊張しておる? 。吾とお前の仲ではないか」
「どんな仲ですか!! 誤解されるような行動は控えてくださいと、あれほど言ってるじゃありませんか!!」
堪忍袋の尾が切れたのか、郭嘉の方に向き直り喚き始めるに郭嘉は深い笑みを作る。はたから見たら痴話喧嘩にしか見えない行動だとしても、にとっては一大事だ。
何度郭嘉の愛人らしき人から嫌がらせを受けたことか……。それもこれも、全ては目の前の男が誤解されるような行動をとるのが悪いのだ。
「」
「な、なんですか」
「考え直す気になったか?」
「だ、だから何をですか」
「吾の……」
耳元で囁かれる声に心臓が煩くなり始める。
「郭嘉、冗談は止して頂戴」
「冗談なものか。……」
そっと頬に触れる手は氷のように冷たく、は思わず目をきつく閉じた。
「」
甘い声で紡がれる音に僅かに身を震わせ、郭嘉の吐息を間近に感じたところでは目の前の体を力いっぱい押し返した。
「つれないな」
「……つれなくて結構、です。そういうのは他の女性の方にしてくださいと、以前からお願いしてますでしょ」
色気のかけらもない答えに苦笑を漏らし「郭奉孝の智に惹かれているからか?」と揶揄するような声色を
の耳元に吹き込む。
「それ以前に貴方と私の関係を考えたら、そういうことにはならないでしょう!!」
真っ赤な顔で怒鳴る姿は可愛らしい。当人に言ったら激昂されること間違いない言葉を口の中で呟いて、を後目に郭嘉は自分の執務室へと足を踏み入れた。
「鈍感」
少しばかり残念な色を浮かべ、背後にいる存在を想い薄い笑みを引く。
「入らないのか? 」
「は、入ります!!」
いちいち大げさな身振りをするを招きいれ、僅かな時間を楽しむべく茶器へと手を伸ばす。
「今日もやってましたね、郭嘉様とさん」
「あの二人って仲がいいわよね」
「ほんとほんと」
静かになった廊下に響くのは楽しげな女人の声色。
いつからか名物とまで言われるようになった二人のやり取りを笑うように、鶯が甲高い声を響かせた。
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