「ひぃひぃ」
 大量の竹簡を抱え、執務室と書庫を往復すること早何回。足が痙りそうな勢いで限界を訴えてくる。
「あ、あと、ちょっとぉ……」
 ぜいぜいと切れる息を隠そうともせず郭嘉の執務室を目指す。あー……やばい、なんか視界がくらみ始めた。最終的には気力が全てです。という、体力なんて単語とは無縁の生活をしている身にとっては、長距離の往復がかなり辛い。塵も積もれば……とは良く言ったものだと若干揺れた視界に姿勢を傾けながら、意識がブラックアウトする前にミッションを遂行させる為、庭を突っ切るという近道を選択する。
 綺麗に切りそろえられた芝生は歩きやすいんだか歩きにくいのかよく分からないが、直線距離を縮めることの方が優先だ。
「くっそう、郭嘉め……人の事をなんだと思ってるのよ……」
 当人に聞いたら、「郭奉孝の文官だろう?」と嫌味ったらしい笑顔付きで言われるのは目に見えている。あの偏屈軍師……ならぬ、偏屈養父は「特定の女性は選べません」と公言しているせいか、自分付きの女官をもっていない。安易に近寄る人間を振り落とす為かどうかは知らないが、郭奉孝の下で仕事をしたくば、などと偉そうに制限を設けていたりする。
 そんなこんなで、一向に人気の増える気配のない郭嘉の執務室に入り浸っている文官兼女官は私だけとなっているわけだが……。はたして喜んでいいのか悲しんだらいいのか。
「夜に頑張る余力があるなら、昼間死ぬ気で仕事しろって感じよね……まったく」
 太陽は既に頭上近くで輝いているが、郭嘉は未だ起きる気配を見せない。
「せめてもうちょっと、なぁ……」
 優しい郭嘉なんてそれはそれで気持ち悪いと思うが、少しばかりこちらを労ってくれてもいいのではないか。せめて……そう、甘い物を買ってきてくれるとか――。
「あ、だめだめ」
 郭嘉自ら城下に赴いたりなんてした日には……仕事が滞ること請け合いである。綺麗なお姉さんを侍らせている養父というのもどうかと思うが、あれでいて頭脳はピカ一というのだから怒るに怒れないというか、もやっとした感情が腹の底に溜まるというか。
「ふー……あとちょっと、頑張ってみますかねー」
 見慣れた扉を視界に捉え、重さに震える腕を叱咤する。
 早く書を置いて、厨房にお昼ご飯をもらいに行こう。起き抜けの郭嘉の為に水分の多いものを多めにもらって、自分の分には少し早いおやつということで桃饅をもらってこよう。
 脳内で昼の献立を決定すればあとは行動に移すのみ。周囲に人気がないのを確認し、慣れた動作で扉を蹴り開け近くの机に運んできた竹簡を積み上げる。
「これで、全部よね」
 郭嘉が地図を取り寄せるときは戦が近いのだと経験が告げる。どことの戦を描いているのかは分からないが、取り寄せた地図に付随する地域の気候や地形、その他もろもろ必要になるものを言われる前に揃えておくのが、郭奉孝の文官としての勤めだろう。
「郭嘉は……まだ寝てる……か? あれ?」
 僅かに開いていた隙間から臥所を覗き込むが、在るはずの山がない。
「え、もしかして出かけた?」
 もぬけの殻になった部屋に立ち尽くしている自分……なんとまぁ、寂しい光景だ。
「うっそでしょー……」
 ガラガラと崩れていくお昼の献立に脱力感が襲ってくる。
「別に自分のだけでもいいけどさぁ……」
 なんとなく食事は誰かととりたい、というのが昔からの考えな私にとって、一人でとる食事というのは妙に味気ない。
「出かけるなら出かけるって、言っておいてくれればいいのに」
 居ない人間に文句を言っても仕方ないと分かってはいるが、感情がついてこない。今一度大きなため息を漏らし、皺の寄っている布を手に取り畳む。
「せめて毛布くらい使って欲しいのに」
 不健康を地でいっている郭嘉に長生きしてもらいたいと願うのは、娘の些細な野望だろうか。
「……」
 今にも漏れ出そうだった声を押し殺し、窓辺に置いてある花に視線を移す。一輪挿しの花瓶に活けられた花は今にも萎れてしまいそうだ。
「――わかってる、よ」
 郭嘉に長生きしてほしい……長生きさせたい、と思うのは私のエゴだ。あの不健康軍師と少しでも長く共に居たいと思ってしまう、この気持ちに名前を付けるとしたら。
「わかってるんだよ」
 誰にも聞こえないような小さな呟きは手にした布に吸い込まれ消える。綺麗に畳んだ布を褥の上に置けば、触れた箇所から指先に冷たさが伝わってきて泣きたいような気分になった。

 

「……うーん……」
 冷えた体を温めようと傍にある温もりに体を寄せる。
「……」
 ふわりと鼻腔を擽る甘い香りに違和感を感じとった脳が、ゆるやかに覚醒を促してくる。もう少しだけ眠りたい、あと少しだけこの温もりの傍で――。
「おやおや、随分と積極的なお嬢さんだ」
 現実と夢の中を彷徨う意識を一気に覚醒させたのは、聞き慣れない音のせいだった。
「――ッ!?」
 バチリ、と音がしそうな勢いで開いた目に映ったのは、見知らぬ男の顔。
「なっ!」
 自分と男の距離が近いことに焦りを覚え距離を取ろうと後に下がれば。
「ぎゃあ!」
 おもいっきり、腰から床に落ちた。
「いったぁ……」
「あはは、元気だね君」
 頭上から降ってくる楽しそうな声に痛めた腰を摩りながら周囲を伺う。見慣れた部屋、見慣れた調度品。配置その他から検証しても、ここは郭嘉の執務室である可能性が高い。となると、勝手に他人の褥で寝転んでいるこの男は何者だろう。
「何処の誰か存じませんけど、この部屋で何してるんですか」
「ん?」
 私の問いに男は瞬きを数度。
「面白いお嬢さんだなぁ。ねぇ、きみこそどうして此処にいるの?」
「どうして、って……」
 放置されていた褥を整えて、そのまま寝てしまったのだろうか?
「あなたこそ人の部屋で勝手に何を」
 同じ問いを繰り返せば、「なるほど」と男が笑う。
「どうやら私とお嬢さんの間には食い違いがあるようだ。まず互いの疑念を解消する為に、こちらの手を一つ明かしてあげよう」
 まるでゲームをするかの口調の男に眉根を顰め、冷たい床から立ち上がる。
「ここは私の執務室だよ。だから、私からすればお嬢さんが部外者という立場になるね」
「え?」
 仮眠中に違和感を感じ目を開けたら私が居たのだと男はいう。
「だって、そんなハズ……。ここは、郭嘉の執務室だよ?」
 部屋の持ち主が変わったなんて報は受けていない。確かめるように周囲を検分する私の後から、クツクツと咽の奥で笑う音が聞こえた。
「なんだ、知ってるんじゃないか」
「え?」
「ちゃんと名乗らないといけないのかな?」
 褥に腰をかけ、優雅な仕草で男は自分の胸に片手を当てこちらを見上げる。
「私の名は郭奉孝。この部屋の持ち主だよ」
 雷が落ちるような感じ、というのはこういうことを言うのだろう。告げられた音に体の機能が硬直するのが理解出来た。
「うそ、でしょ?」
「嘘ではないよ、お嬢さん」
 にこやかな笑みを貼り付けるこの男が郭嘉だって? 悪質にも程があると己の片頬を抓ってみたが、痛覚はきっちり仕事をしているようで夢から醒めることはなかった。
「さ、こんどは君の番だ」
「わ、わたし、は」
 眼前の人物から発せられる妙な威圧感。値踏みするような視線が見知ったものと良く似ていて、張り詰めていた緊張が解けていく。目の前の男が郭嘉だと名乗るならば、自分に否定するだけの理由はない。元居た場所だって不思議が大手を振って闊歩していた世界だ、この期に及んで不思議が大安売りしていたところで今更驚くこともないだろう。
「おや」
 こちらの纏う雰囲気が変わったのを察知してか、男の目に楽しげな色が浮かぶ。
 平凡を嫌い、非凡を好む。
 まったく正反対の表情を浮かべる同じ名を持つ存在に、名乗るべき名は一つだけ。
「私の名は。『郭奉孝』の文官です」
 私の告げた音に郭嘉は僅かに目を見開き、すぐ口元に弧を引く。
「へぇ。面白いことをいうね」
 目の前にいるのが『郭嘉』ならば私の言葉を戯れ言と切り捨てないはずだ。
「丁度退屈していたところだし……。うん、いいね」
 そして、私は『郭嘉』との賭けに負けたことがない。
……だったね。これから、よろしく」
 緩やかに差し出された手は、普段触れるのと同じ暖かさで奇妙な安堵感を得た。

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