天幕に戻ると、見たことのない女が座っていた。
「あ、どうも」
「……貴様、何者だ」
手にした剣先を向け敵意を顕わにすると、女は慌てたように立ち上がり「怪しい者ではない」とこれまた胡散臭い動作で両手を振る。
「ごめん、昭君に呼ばれて来たんだけど……まだ戻ってないみたいね」
「昭君……? 司馬昭殿のことか?」
「あ、うん。まずいまずい、つい癖で」
司馬昭の事を名で呼ぶ仲ということは、彼等一族に与するものだろうか。
「女、名は」
「……女って言い方は、よくないと思うけどなぁ……。まぁいいや。私は。司馬昭君達……というか、司馬懿様が魏に居る時に一緒に働いてたの」
「司馬懿、様だと?」
彼に仕えていた文官か、女官か。何にせよ鵜呑みにするのは危険だと本能が警告を慣らす。
「ねぇ、それより……昭君達は出兵してるの?」
「下見だ」
「なるほどね」
机の上に広げられている地図に視線を落とし、口元に片手を当てて考えている素振りをみせるという謎の女。彼女が見ているのがこれから攻める場所の地図だということに気付いた時には、問いが音になっていた。
「お前ならどうする」
問いかけたのは単なる気紛れから。
主語の無い問いかけには臆することなく、何度か視線を彷徨わせた後口元に当てていた手を机の上に乗せた。
「私なら……」
細く白い指先が踊るように地図上を舞い、ある一点を指し示す。
「この渓谷に誘い込んで……火攻めに、するかな」
「なに……?」
見た目からは想像し難いえげつさを惜しみなく披露した彼女は、「けどね」と軽やかな口調で言葉を続ける。
「人道的な問題もあるし実行する気のない策だから、机上の理論と打ち棄ててくれていいよ。まぁ……効率だけを考えるなら一番だけどね」
自らの出した策をあっさり打ち棄て、挟撃するのが王道だろうと新たな策を口に乗せる。次から次へ淀みなく提示される策に、奇妙な感覚が全身を支配した。
この女は自分と同じ軍師、と呼ばれる立場にいたのではないか。司馬昭は自分の力量が足らぬと判断し、を呼び寄せたのではないか。一度浮かんだ疑念は胸中に巣くい、醜い感情が沸き上がる。
「こら」
急に額を襲った衝撃に、何が起こったのか脳が理解することを停止した。
「な、なにをする!?」
眼前に広がる白さに眩暈を覚え、慌ててから距離を取る。
「疑念を抱くのは終わってからでも遅くないでしょ? 職業柄仕方ないのかもしれないけど、始めから総てを疑ってたら疲れちゃうよ」
自らの眉間を指先で叩きながら、「皺が寄ってる」とが笑う。
彼女の笑顔を見ると腹の底が震えるような、何とも言い難い感覚に陥るのは何故だろう。
「……お前は軍師なのか?」
「軍師、では……なかったよ? 多分」
「なんだそれは」
「軍師ってのはさ、不可能を可能にしなくちゃいけない存在なんだよ。例えそれが雲を掴むような話しでも、ね。一度描いた物事を実現させる為に一つずつ不可能を潰して歩いて、奇蹟と呼ばれる胡散臭いものを具現化させるのがお仕事なんだよ。だから、それをしなかった私は軍師じゃなかったってこと」
の言い分にはっきりと体が震えた。彼女が……という存在が怖ろしいと全身が拒否感を顕わにする。先程から感じていた感覚は恐怖だったのかと今更ながらに気付き、指先が震えぬように両手を組んだ。
「ね、それより貴方の名前聞いてないよ」
「……鍾士季だ」
「ああ、貴方が鍾会さんだったんだ。昭君から有能な人だって聞いた事あるよ」
「フン……当然のことを」
彼女に褒められるのがこそばゆくて顔を背ける。
「あ」
声に促されるように視線を戻したのは愚策だった。驚いたように目を見開いていながら、視線が正面に向く頃には蕩けるような笑みを浮かべる。
「――ッ」
心の底から嬉しいといった笑みに、心音が早くなった。
「ごめんごめん。なんかさ……似てて」
「似ている?」
「うん。捻くれてそうなところとか、高慢そうなところとかが、もうそっくりで」
「……お前は私を貶しているのか」
嬉しそうに微笑んでいるからきっと褒めているのだろうけれど、素直に喜べないのは何故だろう。の言葉一つで目まぐるしく変わる感情が、気に食わない。
が何の用件で呼ばれたのかも分からないし、そもそも彼女の言い分を鵜呑みにすると、という女は司馬家が権力を握る前……魏王が存命であった頃から仕えていたという。と、なると今この場にいる存在に素朴な疑問が沸く。
もし、彼女を信じるならば……それは、有り得ないことだ。
「貴女は……」
人間か? 言うべき言葉は逆戻りし、音にならずに消えた。
「貴女の、名前は?」
「君の選択は正しいよ、少年」
見た目の年齢がさほど変わらぬ女は、揶揄するように綺麗な笑みを貼り付ける。
「本能ってのは良く出来てるものでね。本当に危険なものに遭遇した時は、理論でやり込めずに従った方が安全なんだよ。特に、戦の時にはね」
ざり、っとが距離を詰める度に砂音が耳を付く。
不協和音から逃げたいと足が後退しそうになるのを無理矢理押し止め、白い存在が傍によるのを睨み付けるようにして迎えた。
私の恐怖を感じ取ってか面白そうに目を細め、は綺麗な仕草で片手をこちらに差し出す。
「私の名は、郭。よろしくね、鍾会さん」
不可思議な存在であるその女は、その昔稀代の天才軍師と謳われた男と同じ姓を名乗った。
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