澄んだ音色が耳に響く。断続的に響くが決して耳障りではないソレを、子守歌代わりにしながら何処か懐かしさを感じる浮遊感に身を任せていた。目を閉じ、耳を澄まし、総てで世界を感じる。暗い目の裏に鮮やかに焼き付く色彩に、口元が綻ぶのは当然の事だろう。
こんなに穏やかな時間を過ごすのは何年ぶりだろうか。思い返してみればかなり波瀾万丈な人生を送ってきたと思う。
領主の暴行なんて良くある話だが、時々考えてみる事がある。あのまま横暴に耐え、多少の苛立ちや不満を抱えながらも普通に村娘として暮らしていたら、と。畑に目を付けられたのは痛い所だが、あの土地が己のもので無くても実る黄金を見れない訳ではない。
だが私には武の心得があった。拙いながら知も持ち合わせた。そしてなにより、心、が己の境遇を許さなかった。偶然の積み重なりが必然を生む。
夢を見たことがあった。古い昔話に出てくるような英雄に憧れた事もあった。苦難を乗り越え世界を救い、お姫様を助けてハッピーエンド。まさか、それを自分がやるはめになろうとは思いもしなかったけれど。
「お姫様になりたい、とは言わないけどね」
守られてばかりというのは私のガラじゃないし。行動を起こし、道を切り開いていく方が自分の性に合っている。でも…………でも?
私はどうしたいんだろう……否、どうして欲しいんだろう?体を反転させ、少しばかり潜ってみる。
生暖かい水の感触は私が思っていた以上に心地よい。水の世界から見上げた空はとても幻想的で穏やかに揺らめいてた。
息が苦しい。口の端から緩やかに上昇する泡を手で握ってみれば、指の間からすり抜ける。当たり前の事が何故か面白いと思った。
このまま浮上しなければ、この穏やかな世界で何も考えず、何も感じず全てを終わらす事が出来るのだろうか。私の事を何も知らない、ただ優しさだけを与えてくれるこの世界で。甘美な誘惑が脳裏を占領する。その誘惑を享受したいと思っている自分がいる事も確かだ。普段なら考えつかない事に意識を囚われるのは単に酸素が足りないだけかもしれない。
視界に揺れる銀糸が映る。
昔の髪の色だったならばこの青さに同化していたかもしれない。己の揺らめく髪を見つめていたら苦笑が漏れた。肺に残った酸素を全て吐き出し、急速に浮上を開始する。
水面から顔を出し、大きく息を吸い込めば心臓が早鐘の様に鳴る。軽く呼吸を整えた後、また仰向けになりゆっくりと目を閉じた。
自分の髪を見て、思い出すのがあの人とは。
溺れていると思う。息も出来ない程に、何も見えなくなるくらい。
恐らく自分、という存在以上に優先しているのではなかろうか。
病気だ。決して治ることの無い病。過去の行動を振り返ってみても、原点にいるのはあの人な訳だし。我ながら狂気の沙汰だ、と思うことがある。
「私の人生って何なのかしらね」
他人事の様に冷静に判断してみれば、恋に狂った女。ありふれたエピソードである。恋の為に殺人を犯し、恋の為に運命を歪めた。普通のお嬢様方よりは過激だが、愚かな話の一種であることには変わりない。
まさか自分がここまで落ちるとは思っていなかった、というのが本音。
全てを投げ打ってまで注ぐ愛情なんて、物語の中だけの話だと思っていたのに。「ここにいらしたのですか」
今とてつもなく、懐かしい声が聞こえたけれど……まさかね。
「貴女は耳まで聞こえなくなったのですか?」
「珍しい事もあるものね」
空耳で澄ませようと思ったけれど、相手はそれを許してくれないらしい。私としては二度と会いたくない相手だけれど。
「何かご用?……ツェラシェル」
ご丁寧に兄妹揃って。妹達の方から発せられる殺気に妙に心地よさを感じてしまうのは、私の心が壊れているせいだろうか?
軽く水飛沫を上げて、私は正面から向き直った。
「ああ、もしかしなくても」殺しに来てくれたの?
言って軽く笑みを浮かべれば、途端に顔色を無くす彼等。
「この……っ!」
「控えろ」
今にも飛びかかってきそうな妹達を片手で制する所を見ると、他の用事があるみたいだ。
「エリス様がお呼びだ」
王妃が?何故?
小首を傾げれば、ため息混じりに茶の用意をされている、との返答があった。
なるほど、私をお茶会に誘ってくれるという訳だ。
「ねぇ」
聞きたい事があった。
私情で命を奪ってしまった彼が、何故私の前に姿を現したのか。復讐する訳でもなく、淡々と己の仕事をこなす彼は、どんな気分で私と話しているのか。
「今、どんな感じ?」
双子の殺気が膨れ上がる。
「愚問を」
殺したいに決まっている、とあっさり言われた。
「じゃなんで殺さないの」
「あの方がそれを望まないからだ」
彼は、大人だ。
「貴女達も?」
双子に問えば、こちらも予想通りの答えを返してくれる。
それが、心地よい。
「なんか…………」
嬉しいね。今度こそ、兄妹揃って引いた。
頭が壊れた人と思われているのかな、私は。不躾に気持ち悪い物を見るような視線を投げかけられると、私だって多少は傷つくのだけれど。
「よく言うじゃない?愛情と憎悪は紙一重だって」
極上の笑みを浮かべて問えば、双子の頬がうっすらと染まる。我ながら女殺しだ。
「それだけあなた達の中に私が住んでいるって事でしょう?切り離したくても、忘れたくても出来ない位住み着いてる。私の中にはいない、ワタシ、があなた達の中に居る。私の罪が、いる」
軽く目を閉じ、囁く様に言う。
「私は後悔しないし、自分が間違っていたとも思わない。無論謝る気なんてないわよ?」
私の台詞にツェラシェルが顔を歪めた。
「でもね」私は……
貴方の事を、決して忘れないでしょう
例えこの先気が遠くなるような月日を生きたとしても。この命が消えるその瞬間まで。
「貴女は……何を言っているのか、分かっているのですか?」
唖然とした表情のツェラシェル。気に障る事を言ったかしら、やはり。
でも言っておきたかった。例えあの時私の願いが受理されずにいたとしても、自分が奪った命の事を私は決して忘れない。一生背負って生きる覚悟はあった。
「それは……、凄い、…………殺し文句ですよ」
口元を片手で押さえながら喋る彼の顔色が良いのは見間違えではないようだ。
双子も顔を赤らめている。……可愛い。
「私、貴女達の事好きよ。妹みたいで可愛いもの」
昔兄さまを平手打ちしたのは許せないけどね。
「ね、今度一緒にお茶でもどう?ああ、勿論リューガ邸じゃなくて……そうね、街ででも、ゆっくりと……色々お話してみたいし」
「な、な!」
「わ、我らは!」
真っ赤な顔で反論しようとしてくる彼女等からは、いつの間にか殺気は消え去っていて。
「ねぇ……駄目かしら?」
少し泳いで近寄れば、慌てたように下がる彼女達。女の子を口説くってこういう感じなのかしら。……以外と楽しいかもしれない。
「わ、我らは先に帰ります!」
慌てふためいたように、早々と立ち去る彼女達を見送って、彼は大きくため息をついた。
「あまり妹達を困らせないで頂きたい」
「だって、どうせなら好きになってもらいたいじゃない?」
殺気を向けられるより、好意を向けてもらった方が嬉しいに決まっている。
「貴女という人は……」
「図々しいにも程がある、って?」
最愛の兄を殺めた者に好意を持てなんて、勘違いも甚だしい。
「…………声を、聞きました」
何故か今言うべきだと。そう、思った。
「起きろ、と。暗闇に囚われていた私を、優しく包みこむ声を、聞いたんです」
「…………」
深い愛情と、深い悲しみと。己の中に流れ込んで来たあの感情の持ち主…今なら、解る。
「恨んでますよ」
自分を殺した人間が憎いはずがない。恨まないはずがない。
「心の底から、憎いと思います」
なのに、心がこうも穏やかなのは、きっと。
「私は生涯貴女を許すことはないでしょう」
彼女の抱える悲しみを理解してしまったから。
瞳の奥底に眠る自責の念を酌み取ってしまったから。
誰にも気付かれないように、気丈に振る舞うその姿を痛々しいと感じるのは何人いるだろうか?深い後悔に彩られた瞳に気付く者は、どれくらいいるだろうか?
彼女が終わりを求めていると思うのは、自分の気のせいであろうか……?「察しがいい人は、損をするよ」
自嘲気味に私は言う。
ほら、だから貴方は私を憎みきる事が出来なくなった。憎しみだけを糧に生きている方が楽なのに。気付いてしまうから、損をする。
「これも性分なもので」
「本当に、損な役回りね」
「死にたくなったらいつでも言ってくださいね」
「あはは……私は長生きするよ。まだまだやりたい事もあるしね」
折角掴んだこの未来を、終わらせたいなんて一瞬でも思った自分が馬鹿だった。まさか、彼に正気に戻されるとは、ね。
「で、いつまでそのままでいる気で?」
服のまま湖に浮かんでいる私に苦笑混じりの視線を向け彼は言う。
「ああ、お茶に誘われてるんだっけ……ん、すぐに行きますって言っておいて」
「了解しました。……ノーブル伯」
早々に踵を返す彼の背に向かって、私は言葉をかけた。
ただ、一言だけ。囁くように…ありがとう、と。
届かないと思っていた私の言葉に、軽く手を挙げて彼は応えた。「恵まれてるなぁ……」
これが世界平和をもたらしたご褒美というなら、涙が出るほど嬉しいかもしれない。
望む未来を手に入れ、予想外の幸せをもたらされた。こんなに優遇されていていいのだろうか?それとも、今浸っている優しい世界が見せた束の間の夢なのだろうか?
「甘やかしすぎだ」
幸せすぎて怖い、とはよく言ったものだ。
今一度目を閉じ心地よい浮遊感に身を任せる。風に揺られ、波に誘われ、揺れる自分の体。
少し、死にゆく気分に似ている、と思う。今後も、甘やかしてくれるというのならば……望んで良いと言うのならば。
選択肢の一つに、優しい、最期を……。