世の中には我輩の嫌いな言葉が二つ存在する。
一つは「ありがとう」だ。
いったいぜんたい誰がこんな言葉を作り出したのだろうと理解に苦しむこともしばしある。
我輩の全ての行動は我が輩の思うところから出るのであって、断じて他の人間のためのものではない。それなのになぜ「ありがとう」などとい言葉を向けられなければならないのか?
まるで我輩がその人間に何かをしてやったようではないか。
まあもっとも、我輩は自分のためにしか力を使わないと決めているし、事実その通りにやってきた。
生徒たちには授業以外で関わるようなことはなかったし、教授陣にしてもそれは同様だ。
おかげで我輩はもうずいぶんと長い間このばかばかしい言葉とは無縁に、それは快適な毎日を送っていたのである。
だがそれも夏休みを目前に控えたこの時期にある生徒の訪問によって打ち砕かれたのだ。まったく、忌々しいことに。
その生徒の名前はハリー・ポッターといった。父親によく似た顔立ちといい、我輩の姿を見つけてはこそこそと物陰に隠れる様子といい、何から何まで我輩の気に障る。
無論ポッターの方でもそう思っていたようで、これまで進んで我輩に近寄ってきたことはなかったはずなのだが。
「ポッター。我輩は君を呼んだ覚えはない」
「はい、もちろん知ってます。あの、僕、先生にお礼を言おうと思いまして……」
「礼!?」
我輩が盛大にしかめた顔をなんと思ったのか、ポッターはさらに言葉を続けた。我輩を見上げたまま、緊張しているのかやや早口で。
「はい。あの、ダンブルドア先生に聞きました。クィディッチの試合の時、クィレル先生が僕を殺そうとしたのを先生が止めてくれたって。だからそのお礼を、と思いまして。
ありがとうございました」
そう言ってポッターは深々と我輩に頭を下げた。我輩は口をへの字に曲げ、腕を組み替えてはポッターを見下ろす。胸の中にこみ上げてくる不快感をこらえ、どうしたらポッターを我輩の部屋から追い出せるかとそればかりを考えていた。
「別に君が気にする必要はない。我輩は名誉あるクィディッチの試合で死者を出したくなかっただけだ」
「はい、でもそのおかげで僕の命が助かったのは事実です」
目を輝かせながらポッターが言う。何がそんなに嬉しいのか我輩には推察しかねる。
そして我輩の言葉を遮ってポッターはさらにこう続けた。
「そのほかにも! 僕たち、ずっと先生がヴォルデモードの手先だと思ってました。だから先生のことをずっと疑ってたし、影で見張ったりしてたんです。本当にすみませんでした」
「……我輩は」
言葉を探すように、一度口をつぐむ。
「我輩が求めるものは他人により与えられる物ではない。従ってヴォルデモードに従ったところで、我輩に益はない」
「はい、だから僕たち先生を誤解してました。あのときは先生がこんなにいい人だなんて思わなかったから。そのこともお詫びしなければと」
ポッターは熱心な目で我輩を見上げている。我輩はその目にうんざりしてため息をついてから口を開いた。
「ポッター。もしもヴォルデモードが我輩の益になる条件を持ってきたのなら、我輩は迷わずにその側についただろう。それだけの問題にすぎんのだ。従って我輩は断じて『いい人』などではあり得ない」
一息つき、ポッターが何かを言うよりも早く戸口を指さす。
「さて、話がそれで終わりならそろそろ我輩を一人にしてもらおうか。明日までに読み終えたい本があるのでな」
だが……そのあとのポッターの言葉こそはまさに我輩の予測の範疇を越えていた。こともあろうにポッターは我輩に向かってこう言ったのだ!
「先生は……もしかして照れているんですか?」
「ポッター!!! 我輩は今猛烈に気分が悪くなった。すぐに出ていきたまえ!」
「はい、でも先生。僕、前ほど先生のことが嫌いじゃなくなりました。むしろ親しみがわいて……少し好きになりました」
我輩はもはや言葉もなくポッターを見下ろした。よりにもよって同じ生徒から我が輩の嫌いな言葉を一日のうちに二つも口にされようとは!
なんと言って怒鳴りつけてやろうかと考えているうちに、我輩の目に気づいたのかポッターはにこりと笑って見せた。その顔たるやよくジェームズが笑っては我輩に言っていた言葉を思い出させた。
「君は私を嫌うけどね。私は君を嫌いだと思ったことはない。むしろ友人になれれはと思っているんだよ?」
その度に我輩は虫酸が走る思いを味わったのだが、この親子ときたらそうしたところばかりが嫌になるほどそっくりだ。
我輩はとりあえず視線を机の上の本へを移し、聞かなかったことにした。
しばらくそうしたあとでもう一度ポッターに目を落としてみると奴はまたにこりと笑みを浮かべた。
我輩は……黙って天を仰いだ。